2017年1月19日 (木)

無理をしない

鼻水とせきがとまりません。昨年の暮れ、しばらくかぜをひいていたのに、またウィルスにやられました。こんども長引いています。
歯磨きで奥歯の歯茎を傷つけてしまい、そこから親知らずの埋没歯に雑菌がまわってしまい、3週間ほどもものがかめないということも、あったばかり。
駈けこんだいつもの歯医者さんで言われたのは「そうとう疲れてますよね? かなり抵抗力がない状態。治療はしても、まずはゆっくり休まないと回復しません」だった。
思いあたることはあります。迷える書籍原稿の件で、そうとうに気力を消耗し、体力もつかいました。

無理をしないーー
は、できそうでできない。根がなまけものなのに、あるところにだけムキになってしまうところがあります。
ようするに、人間のバランスが悪いのです。そのバランスの悪さが、如実に体調にあらわれるようになったということなんでしょう。
トシです。

ついでながら、ぶちはけっして無理をしません。
暑ければ歩かない。雨の日も歩かない。寒ければストーブのまえをはなれない。ひとのふとんにもぐりこむ。で、ふとんのまんなかで枕をつかって寝る。じゃまになると人を蹴る。朝は、ぜったいに早起きしない。めんどうくさければ、呼ばれても聞こえないふりをする。犬ぎらいで、道で会うどんな犬ともかかわらない。
できそうでできません。

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2017年1月12日 (木)

絶版『煙る鯨影』


お知らせがあります。『煙る鯨影』の絶版が決まりました。ひさしぶりに電話をくれた担当編集によれば、小学館では「絶版」ではなく、「再版をしない本のリストにはいった」という言い方をするらしい。 Img_0039_2発売は2008年です。7000部をつくり、重版は一度もかかりませんでした。在庫は100冊強、実売数を尋ねると「5000部は確実だと思います」とのことでした。少々、すくわれました。
10年の販売状況をみるかぎり、「再販せず」との判断は、まぁ妥当だというべきでしょう。


いま手にとって見ても、つくりはけっこう凝っております。鯨の背びれをあしらったカバー画は、わざわざ木内達朗氏に書き下ろしていただきました。装丁は岩瀬聡氏。たまたま別の仕事でご一緒したことがあり、わたしが希望しました。実物を見ていただくとわかりますが、タイトルと著者名は、ツヤのあるゴム状の物質を盛ってある(技法としてなんというんだろ?)。箔の逆だね。章扉にも書きおろしのイラストをつかっていて、こちらはアライ・マサシ氏が引きうけてくださった。
書籍という実態の出来に手間暇(もちろん金も)をかける、こういう贅沢は、きっともうこのさきはできないでしょう。


発売当初、評価は賛否両論でした。著者インタビューなどでほとほと嫌になった質問が「そもそも、あなたは捕鯨を肯定しているのか、否定しているのか」でした。わたしは、こうこたえました。
「それをひと言でいえるぐらいならば、本なんか書かなかったでしょう」
いまだ存在する「商業捕鯨」の側から日本の海を見晴らしたら、捕鯨の世界はどんなふうにみえてくるだろうか。
これが、この一冊を書いた動機です。で、大々的に報道される「調査捕鯨」とは、まるでちがう窓をあえて開けてみたわけです。この窓、じつは捕鯨関係者(商業側、調査側、管轄省庁ともに)は、あまり開けてほしくなかったんだね。このがんじがらめの状況から、筆をどれだけ自由にできるか。とうじのわたしに出来たのが、方法としてのあのスタイルでした。政治や近代史、土地柄といった諸事情の角をそいで、ただ「鯨を追う」というだけの、すごく単純な物語のなかに折りたたんでしまうのです。
足りないことは多々あれど、でも、あのころの自分にしか書けないものでした。

絶版とはいえ、まだ計算上は2000部弱が流通しております。まだ購入できます。

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2017年1月 9日 (月)

詩とはなんだ

啄木は、後世に歌人として名を残しました。
でも、そのことを啄木当人はどう思っているのであろう。
彼はたしかによく歌をつくりました。息をするように、悩ましきこと、うれしいいこと、そしてさもない雑念を歌のたかたちで吐きだしました。明治歌壇の革命児といえば子規ですが、啄木もそこにならべていいだろうと思う。もっとも、啄木にはそんな意識は微塵もない。

啄木は、本質的には思想家でした。彼は思索の過程で、歌をつくり詩をつくったのではなかったか。だから、彼の声はおおくの場合、すっぱだかです。塀に、熟柿をたたきつけるような乱暴さと無防備さがある。だからおかしい。だからかなしい。

石もて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし

たんたらたらたんたらたらと
雨滴(あまだれ)が
傷むあたまにひびくかなしさ

どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな

詩とはなんであろうと、啄木は真剣に考えました。ことばの可能性を突きつめずして、その問いにこたえることはできない。ことばの可能性をつきつめることとは、詩をつくること、詩を受容することに行きつく。つまりは、ものごとを詩的にとらえる「個」を、己のうちに持っているのかということです。
最近、はっきりとわかったのは、マスメディア的な「いいもの」との対極に、詩のおもしろさはあるということ。地下水脈には、大向こうへの反骨がある。

でね、反骨ってのは、「あそび」のなかに芽生えるものなんです。啄木は、あそびがないと死んでしまうようなひとだった、きっと。だって、彼のどんな悲しい歌にも、どこか滑稽さがあるでしょう。
萩原朔太郎は啄木と同年だけど、彼の詩には啄木のようなあそびがない、とわたしには思える。朔太郎は、ひたすら技術をきわめ、それによって詩芸術を確立しようとしました。けれどもその詩からは、なにか(己の生)を放るほうな気持ちよさを、すくなくともわたしは見いだせない。

詩とはなんだーー
それは一見、まったく悠長でのんきな問いかけだけれども、じつは情報と物資に飲みこまれたいまの社会をとらえる、いちばんの近道ではないかと直感的に感じています。
「ことば」と「あそび」は、ひとの精神をかたちづくるもっとも基礎的な単位じゃないかと思う。啄木の歌からわたしが感じとったのは、そのことなのでした。Img_0032


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2017年1月 5日 (木)

牧水のよた話

すうじつ前、たいそうな酒好きである友人のよた話につきあいました。
彼の名は、若山牧水。啄木の死をみとり、なにくれと後始末に奔走してくれた彼の気のよさには、格別な敬意をはらわないわけにいきません。いいヤツです。

彼に「酒と小鳥」という散文があります。いうなれば「酒論」です。牧水はこの稿を
「誰でもそうかもしれないが、わたしは酒を飲むのに、のみたくてのむ時と、習慣や行掛かりでのむ時とふたつの場合がある」
と、書きだします。いわれずとも、だれでもそうです。湯屋で、おっさんが気持ちよく、酒へのこだわりをぶっているといった感じでしょうか。
「要するに、わたしの自然にのみたくなる酒は、常に自分の心や身体を清浄にし、又は高潮せしめる。だからそんな場合にわたしは、酒其物を霊魂あるもののようにも、将又(はたまた)極めて親しい友達のようにも思い倣すことがある」
一見、哲学的なことばに比して、たいしたことをいっていないところがいい。
散文「酒と歌」では、こうのたまいます。
「今まで自分のして来たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を作って来た事だけの様である。いま一つ、出鱈目に酒を飲んで来た事」
歌をつくるものも、酒を飲むのも、彼のなかではたいして差がないのかもしれません。どちらも、欠くことができない暮らしのいとなみ。
朝といわず昼といわず、酒をさんざん飲んで42歳まで生きながらえたから、「この昭和2年からもっと歌に対して熱心になりたいと思う」(「酒と歌」)という新春の決意は、小学生のようにすなおでほほえましい。

酔い果てては世に憎きもの一もなし ほとほと我もまたありなしや

もうひとつ、彼には好きなことがありました。旅です。景勝地をたずねるわけでもなく、知人をたずねるわけでもなく、あてどなく、たったひとりで山間に点在する村から村へと歩いてゆく。骨の髄まで、非生産的なひとなのです。ようするに、あそんでいないと歌ができない。歌を詠むことだって、彼にはあそびでしかない。
おりしも、アメリカでは悪名高い禁酒法がしかれておりました。それについてひと言、極端な「現実主義物質主義に凝り固まっている」アメリカならばしかたなしか、といった感想をもらしています。
そこを読んだときこう思ったのでした。経済成長が至上命題のいまの社会に、果たして彼のような天真爛漫な歌詠みの居場所があるのだろうか。「牧水」が酒をたらふく飲んで、ぶらぶら旅をできないような世のなかは、つまらないなぁ。

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2017年1月 1日 (日)

元旦のこと

勝手に年が明けました。
自分がなにをせずとも、時はどんどん前にすすむ。ひとがつくりだす暦などおかまいなしに、地球はみずから回転しながら、太陽のまわりをはしりつづけます。
時というのは、ようするに変更や制御不可能な「神の意志」です。

書籍原稿の推敲に疲れた夕方、気分転換もかねてふらふらと近所の大鳥神社にでかけました。
帰りに西の空をみあげると、みかん色の残照と墨色がかった夜が接するあたりのあいまいさが、なんともいえずにいいのです。「たそがれどき」という言葉を考えたのは、いったいだれでしょうか。

酉年です。
金の卵を産もうという野心が、なくなったのはいったいいつごろかと思う。
金の卵とはなんだーー
ただ、卵を産まないもの書きは、あたりまえだけど、もの書きではない。

うす暗くなった空のした、自転車をこいでいたら
「南はどっちだ」
という言葉が、ふと胸に浮かびました。わたしは、きっと南に行きたいのだろう、わたり鳥たちみたいに。あの空は、南の方角を守護する朱雀の羽の色かもしれない。
2017年をうらなおうという気が、いっこうにおこらない。興味がわかないのです。
あまりにものごとの展開がはやすぎて、あまりに変化がおおきすぎて、あまりに起承転結が短絡的すぎて、1年先のことなんか、わたしには皆目わからない。明日のことですらわからないのだから。
はっきり言ってしまえば、未来の「見こみ」なんかどうでもいい。

鮭の雑煮をつくりました。日本酒をすこし飲みました。思いたって中島敦の「文字禍」を読みなおしました。

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2016年12月30日 (金)

時間と想像

2016年が終わろうとしています。
たのしかったこと、希望的な展望をひろげてみたかったけれども、なにも見あたらない。まるで瓦礫の山を見るよう。

とうとう世界はここにたどりついかーー
と思わずにおけません。
大方の予想をくつがえして、アメリカでは共和党のトランプ氏が大統領選に勝利しました。ロシアのプーチン大統領と、うまいこと釣りあったなぁというのが、わたしの実感。かたやツァーリ(皇帝)、かたや不動産屋の富豪。まるでちがうけれども、いずれもがその国力をたくわえたときの典型モデルです。

16世紀半ば、ロシアの初代ツァーリ「イヴァン4世」は、版図を東へひろげることに没頭しました。ツァーリズムという独特の専制政治は、外への拡張と内への粛正で成りたっていました。
一方、インディオの豊かな土地を収奪した若きアメリカは、農奴制によって資本をたくわえてゆく。開拓と広大な土地(ただ同然)の所有は、産業の発展に欠かせない原資でした。
ようするに、資本主義の天井がすぐそこに見えた21世紀になって、アメリカもロシアも、もっとも競争力が高かった古きよき成長モデルを再び採用したということなのです。
ひとえに、資本主義の表皮が無残にずりむけてしまったからにほかなりません。ふたりの理想はじつはおなじで、最終的には「成長の効率化」なのです。侵略も恫喝も差別主義も窃盗も暴力も、だから支持される。

日本の安倍政権が、盤石な政権基盤を長期間にわたり維持できるのも、やっぱりおなじ理由です。福島第一原発の事故処理さえ見通しがたたないのに、トップセールスで原発の輸出をすすめる。武器輸出を解禁する。金融緩和で不動産・住宅産業の活況を演出する。
いずれも成長のためです。つまり、国民国家の原則でいえば、国民の利益のため。だからこそ、無条件で国民から信任されるわけです。成長という現象が、すばらしいことだと漠然と考えられているからです。

いま、ふたつのことを、ゆっくりと考える必要があるでしょう。
ひとつは、現実に成長は可能か、です。
もうひとつは、成長によって得るものを見なおすこと、です。耳目を動員して、想像力を働かせるのです。かりにそれが、持続不可能なものだったならば、果実よりリスクが勝るということです。もっとも、それは5年、10年ではなく、50年、100年単位による展望を必要とします。
それができない時代なんだね。

成長が難しくなればなるほど、ひとにあたえられる考える時間は刻まれてゆきます。すぐに結果がほしいからです。企業活動でいえば、「迅速な意志決定」こそが重要、ということ。
わたしたちの想像のレンジは、また今年、一段と狭まったといえるでしょう。利益確保のために、はしりつづけ(はしらされつづけ)、「時間」を喪失しつづける。みんな、なにかにひたすら急かされている。

想像するための時間が刻一刻と短くなっているということは、なにを意味するんでしょう。
さいごは、想像の無用にいきつくことは、明らかです。社会と人生から、「あそび」が完全に駆逐されるということです。あそびが生まれる土壌には、必ずあるていどの時間が備わっていますから。
来たる2017年も、世界の流れは変わらないでしょう。資本主義の傷はもっとあらわになって、肉も血もさらされることでしょう。
だからこそ、個人の想像力がためされる。そこをゆずってしまったら、もはや人間は人間でなくなってしまう。

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2016年12月23日 (金)

おしらせ

twitterのアドレスをようやくサイドバーに表示できるようになりました。
めったにさわらない「設定」の操作に、だいぶ手まどってしまいました。いきつもどりを、何日くり返したことか。たいしたことじゃないれど、わたしには大仕事なのです。ささやかな達成感があって、けっこううれしい。  Photo左のカレンダーしたをごらんください。


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2016年12月21日 (水)

環状の時間

冬至です。
24節気の第22の節。残すはあとふたつ、小寒と大寒。これを過ぎれば、年はひとめぐりして待望の立春がめぐってくるわけです。輪の対極にある節が、夏至だね。
つまり、旧暦を絵にしてみると時間は環状になっています。ときは、ぐるぐるとまわっている。

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也
といったのは、松尾芭蕉です。彼は、時間をとどまることなく流れ去って行くもの、あるいは一方向にのびてゆくベクトルのようにとらえています。環状じゃないね。こういったイメージを持てるのは、きわめて希で、じつは漢籍につうじた文人墨客ぐらいじゃなかったか、という気がしています。
明治以前はほとんどの民が、農民です。彼らは24節気の環状のなかで種をまき、草をむしり、収穫をして、作物を干して暮らしてきました。そこにある世界は、一巡して、またふりだしにもどるのです。
この時間感覚は、じつは日本の祭祀とふかく結びついています。暦をつくり、時間を司るひとは、世界を〈一新〉できるひとなのです。古代社会で天皇が果たした役割が、それ。一新は〈世界をつくりかえる〉とか、過去を〈水に流す〉という日本人独特の感覚とも、きっと地下水脈でつながっている。
長い夜が、これからすこしずつ削られてゆくことになります。月から太陽の領域へのゆりもどしが、明日からはじまります。

夕食に、たいそうあまいカボチャを食べました。考えてみたら、冬至にはなぜカボチャなのかを、わたしはまるで知りません。

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2016年12月19日 (月)

みなさまの好み

日曜日、皿をあらいながらラジオを聴いていたらある女性(タレントじゃないゲスト)が「Twitterって、見栄のはりあいじゃないですか」というようなことを、さらりとおっしゃった。それまでのはなしはよく聴いていなかったけど、SNSについて質問されたわけではなく、ごくふつうに会話のなかから飛びだした言葉でした。
司会の女性のとまどいぶりは、一瞬の間にみてとれました。わらいながら無難に話しを流しましたが、彼女はけっして「しかり」とは言わなかった。言えなかったでしょう。

おもしろいなと思ったのは、マスメディアと大衆の関係性が、この短いやりとりによくあらわれていたこと。
マスメディア(mass media)は、なぜマスメディアか、なのです。

いうまでもなくTwitterは万人が利用するSNSです。自分自身の思い、家族や暮らしの様子を仲間内や不特定多数に発信する行為は、生活の一部と化しています。
これに否定的な見解をくわえることは、マスメディアのタブーといっていい。大衆こそ、マスメディアをなりたたせている情報消費者だからです。いってみれば、「おきゃくさん」だね。利潤を生む企業活動は、消費者の嗜好を無視しては持続できません。

ときどき大衆を動かすメディアの力に酔っているメディア人がいるね。でもこれは、大いなるかんちがい。メディアは大衆の思考や好みを180度転換させることなんかできないのです。おなじ方向を向いておなじ歩調で歩き、せいぜいが世のベクトルをすこしずらすことができる、だけなのです。
つまり大衆につきしたがう情報装置がマスメディア。明治のころに活字印刷がはじまり出版産業がおこったときも、インターネット・インフラが整ったいまも、そこは基本的に変わりません。
最大公約数的な「みなさまの好み」を手厚くあつかうのは、情報を拡散するという機能に不可欠な要素です。
SNSにふれるときもそう。その自覚に欠けると、往々にして人と横並び、没個性の思考回路にすら、気づくことができなくなってしまう。なんてことはない「いいね」にしても、どこからどこまでが他者の価値なのか自分の意志なのかが、知らぬうちにわからなくなっています。こういう自己不在の思考が群れなして、大きな力になってマスメディアを動かしている絵を、想像できますか。頭も足も心臓もない浮遊するかたまりーー。それこそが「みなさまの好み」です。

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2016年12月17日 (土)

Twitterだ

Twitterをやってみようか、どうしようかと迷いながら、アカウントづくりをためしにやっていたら、うっかり公開してしまいまいました(単純な操作ミスで)。
せっかくですから、しばらくつかってみます。とりあえず1年が目標。
このブログは、これまでどおりです。


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