2017年3月29日 (水)

ロマンチストと教育勅語

最近おどろいたこと。「教育勅語」を評価するロマンチストの大人たちが、かくも多かったこと。

話題の森友学園が児童に暗誦させる「教育勅語」を、稲田防衛相が「教育勅語の精神は今も取り戻すべきだと思う」と堂々と発言されました。と、ほかの政治家や芸人さんからも賛同者があらわれました。
みなさんに共通するのは、「教育勅語」っていいこといってんじゃんというしごく素直な論法。その「核の部分」というのは、稲田さんによれば「親孝行とか友達を大切にするとか」そういうことらしい。
なるほど、いいことだね。「これのどこが悪いんだ」と、意気ごまれたら否定できるひとなんかいないでしょう。だってそんなの、就学前の園児ですら判断できることです。

こう考えてみましょう。
では、園児ですら判断できるような倫理観、「親や友達を大切にね」というのは、「教育勅語」がないと育たないのでしょうか。「教育勅語」を唱和させないと、おとなは子どもにそれを伝えられないのでしょうか。
否、ですよね。社会生活を営むなら、年齢の階段をのぼりながらだれもが自然に身につけることです。

そもそも明治政府は、なんでそんなものをわざわざこしらえて、全国津々浦々の学校に発布したんでしょうか。しかも教育の最高規範書として。
発布は明治23年の10月、米価高騰により餓死者まで出た年です。列島は、深刻な経済危機に見舞われていました。これを一気に好転させたのが、四年後の日清戦争特需です。

さて「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ」ではじまる教育勅語の「朕」とは天皇です。つまり発話者の天皇が、忠良なる臣民にひとの道を教えてあげるという体裁です。
「わが先祖・天照大神が国をはじめた昔から、天皇家は徳を積みあげてきたんだよ」と前置いて、本題がはじまります。
だから「君ら臣民もこれにならいまえ」と、天皇は徳目を並べたてます。そこに、れいの親孝行やら兄弟仲良くとか、夫婦むつまじくとか、身を慎み人に無礼なくとか、学問を修めよとか、公共の利益の増進とか、世に有用な事業を興せよといったことが、つらつら続く。稲田さんのいうとおり、「いいこと」ばっかりです。
でもそんなことは、じつは教育勅語の「核の部分」ではありません。
それよりも12番目にでてくる、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」が、はるかに重要です。皇国に大事があったときは、「義勇」をささげよ、です。
でね、教育勅語が言いたいことは、つぎなる
「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」
に集約されます。こうした徳目を臣民が備えるのは、はてなくつづく天皇家の権勢をささえるたためだと、発布の目的がはっきりと語られるのです。

教育勅語が明治の社会にどんなインパクトをあたえたは、日露戦争時のある一文から推察できます。有名な詩〈君死にたまふことなかれ〉を大文筆家の大月桂月に徹底的に批判された与謝野晶子は、明治37年11月号の『明星』に桂月への「ひらきぶみ」を寄稿します。
「当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」
発布から11年、教育の場ですっかり定着した「教育勅語」は、国家・天皇のために死ぬ誉の根拠となっていました。

さて、すごく素朴な疑問がまたひとつ。
「皇運ヲ扶翼」する臣民に、徳目が要ることはわかったけど、わたしたちは生まれながらにして「臣民」なんだろうか。
否とこたえたあなたは、臣民失格です。不敬このうえない。戦前ならば、教室のまんなかでほおを張り倒されてもいい。
この国土に生まれた者に、それを選択する余地などありえません。子が親を選べないのとおなじですね。ようするに、皇国は一個のイエだという発想です。国家というイエの最小単位が、父さん母さんと暮らす、わたしの小さなイエです。大胆にいえば、だれもが国家の端くれです。きみたちが天皇の臣民であることは土塊のごとく自然なことだと、暗に語っているわけです。人為を超越した自然現象として、皇国に生まれた栄誉を受けいれることこそが、教育勅語のまさに「核の部分」なのです。

「自然」を敬愛し、「自然」にいかされるわたしたちが、身を賭して「自然」を守ることは当然です。だれもが、国土の一部たる土塊なのですから。
そうです。自然そのものである国家の「うつくしさ」を、わたしたちは決して疑ってはならないのです。国家とはなにかを考えてはいけない。国家がすすむ方向に、異を唱えてももちろんいけない。国家の側からいえば、「わたくし」という固有の人格など無用なのです。あってはならない、ものです。
くりかえしますが、行動の原理とすべき絶対的規範が教育勅語です。絶対的原理というのは、往々にして人の思考を停止させます。したがうことが、美徳だからです。思考することは、自己破壊につながりかねない。
個の消滅ーー。それは、「自然」という全資源を「富国強兵」という国家目標に投入するためには、絶対に必要な下地でした。
その自然を「大陸」にも移植しようという壮大な事業が、はかりしれない犠牲のすえに破綻したことは、ここではくわしく述べません。

逆立ちして、もうひとつ問いを立ててみましょう。
なぜいま、稲田さんら政治家たちは、教育勅語を必要としているのでしょうか。もう、こたえはでています、ね。
よき国家をつくるために、人格ある個人はいらないと、ロマンチストは考えています。必要なのは「臣民」なのです。安倍自民党がつくった法案「特定秘密保護法」や集団的自衛権の行使を容認する閣議決定、自民党の憲法草案を見てみれば、それがよくわかるでしょう。一連の動きの方向性と、「教育勅語」の精神はまさに合致しています。此度の「教育勅語」復活論は、そのような視点でとらえてこそ、はじめて全景があらわれます。
稲田さんが説明なさった、個別の徳目がいいの、悪いのという卑小なはなしではありません。
よき国家では、ひとつの号令に全国民がしたがいます。かつての挙国一致、です。稲田さんらにとって、「うつくしい」とは、そういう可視化できる国の「かたち」なのです。
昭和20年の夏に飛び立ってしまった、うつくしき青い鳥を、いま多くの人がさがすようになりました。「青い鳥はいるのだ」という。「青い鳥はまたもどってくるのだ」という。「青い鳥が見えないやつは、国を愛していない危険人物だ」という。いまが、たいそう懐古的でロマンチックな時代であるのは、まちがいありません。

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2017年3月23日 (木)

「いまこのとき」の森友劇場

園児に教育勅語を唱和させる特殊な保育園のことは、しばらく前から知っていました。そこが、こんなかたちで一気に「全国区」になろうとは、思ってもみませんでした。

森友学園の籠池理事長の国会喚問で、朝からテレビは蜂の巣をつついたような騒ぎです。銀行の待合室で、電車のなかで、スマホ片手に国会中継に見入る人の多いこと。
〈で、みんな、なにを観たいんだろうか〉
きっと、この学校法人の土地取引に、金と政治力が介在していたのかを確かめたいわけじゃない。いかにも不敵な籠池理事長が、国会でなにを演じるのかが、気になってしょうがないのでしょう。

たしかに、登場人物はどなたもキャラがたっています。森友学園との関係を問われてその場限りの嘘をついてしまう可憐な防衛大臣も、その防衛大臣を「おニャン子」と言ってのける太っ腹の籠池奥方も、会見にいきなりあらわれてけんか腰で記者連に吠えたてた狂犬・籠池ご子息も、この一家の「教育方針」とやらに感激した安倍総理夫人も、「おばはん」だの「こんにゃく」だの下品を絵に描いたような身ぶりで潔白をまくしたてた関西弁の鴻池代議士もーー。
どなたも、おもしろい。
もはや芸能ニュースの域です。誤解をおそれずにいえば、これはエンタメです。

でも、一番肝心なことは関心のそとにあります。事件があきらかになってから、ずっと。
それは、教育勅語を戴き、自衛隊の行事に駆けつけて園児に軍歌を歌わせる、いかにも奇矯な私立幼稚園が、いまこのときにーー政治力をたのんだかどうかはさておきーーかくも盛大に教育事業を拡張しようとしたことなのです。彼らの「愛国」に賛同する少なくない政治家たちが、かねてから支援と応援の態度をしめしていたということなのです。それが「いまこのとき」であったことを、スキャンダルに奔走するメディアは、深刻にはとらえてはいません。
「いまこのとき」が、どんな社会なのかを。ことの本質は、政治家が公の場で教育勅語の有用性を堂々と唱えるようになった「いまこのとき」の、気分なのです。

かたわらでもっと肝心なことが進んでいます。
なぜだか、森友問題の盛りあがりが最高潮に達しようというこのタイミングで、国会に「共謀罪」が提出されたことです。
さて、これってたまたまなんだろうか。
個人と国家、思想の自由と社会の監視。「共謀罪」の前と後では、そういったバランスの根本が変わります。そのボーダーが「いまこのとき」なのだとしたら、なにかの必然があるにちがいない。それはあとになってみないとわからないーーなどと人ごとのようにぼやくのであれば、わたしたちはまたいつか来た道をたどることになるんでしょう。ヒツジの群れとなって。

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2017年3月20日 (月)

このごろのこと


ヤマモモの木が満開になりました。と、濃い桃色に鮮やかな色彩の玉が二つまじりこんでいるのに気づく。
メジロやウグイスよりももっとあかるいモスグリーンで、それは「浅黄色」とも「浅葱色」ともちがう。ひと目、ここの風土から生まれた色ではないとわかる。
よくみるとダルマインコです。くちばしで、花を上手につみとって食べている。
〈こんなものを食べるのかーー〉
驚きながら、器用な足や機能的なくちばしの使い方にしばらく見とれていました。
ここで野生化した結果、見つけた餌なんでしょう。
ダルマインコが何世代もかけて東アジアの自然になじんだとして、この目立ちすぎるモスグリーンがウグイスやメジロのような和風のトーンに落ちついていくなんてことが、あるんだろうか。
すくなくとも、彼らはすでに冬を越せるようになっていますから、ここの住人にはまちがいない。
これも当たり前の、春の風景になるんだろうか。


深夜に最寄りの駅にたどりつき、ラーメン屋ののれんをくぐりました。
待つ間、すでに食べはじめていたとなりのスーツ姿の若い男女の会話が耳にはいってくる。男のほうがさかんに、ちょとした設問を女の子にぶつけている(やや声が大きい)。同僚といった感じでしょうか。
「家賃がもったいないと思って財テクで、マンションを買うのと、奥さんや子どものためにマンションを買うのとどっちが、その人を成長させると思う?」
女の子は、お約束ですこし考えてみせる。と、男は待ちきれずに、自分でこたえてしまうのです。
「こたえは『奥さんや子どものため』。それは家族のために『貢献』しようという気持ちがあるから。おなじ仕事やっても会社やお客さんに『貢献』しようと思うのと、そうじゃないのとではぜんぜんちがう!」
この手の、ひな型「心得」を、彼は矢継ぎばやに彼女にぶつけている。
わたしが気になってしょうがないのは、彼女が麺をすするのを、たびたび中断されてしまうこと。
食べ終わって席を立ったら、彼女の奥に座っていた彼のどんぶりは、ほとんど手つかず。麺はすっかりのびきっています。
〈おいしいものは、おいしいうちに食べよう〉


確定申告が終わったあとは、ふだん考えないようなことを考えたります。
ことにお金に関係したことばかり、を。
税と生活のこと。住んでいる地域のこれから。まだ目処がつかない引っ越しのこと。アダム・スミスとケインズの経済理論について。不動産と投資の関係。にわかに盛んになっている再開発やマンション建築の、どこことなく破れかぶれな感じがする勢いについて。中山間地でひとり暮らす老母のこと。その母がいつかぼやいていた名義の書き換えが滞ったままのの杉林の山のこと。老母の死後のこと。事業の才覚がないのに、あれこれ投資をしてどれも失敗した亡き父のこと。じきに大人になる息子たちをむかえる社会のこと。働き方のこと。死んでからの自分の荷物のこと。自分と細君のどちらがさきに死ぬかということ。生家の墓のこと。この4月で9歳になるブチのこれから。
あれやこれや、これやあれや……。

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2017年3月11日 (土)

『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』

〈シネマ手帳〉No44

肉薄した対象の迫力が作品の評価を決めるドキュメンタリー作品にあって、ジャンフランコ・ロージ監督のその方法は型破りだといえます。  __3
此度のテーマである、難民たちの過酷な渡航は、まるでちがう「風景」のなかに浮かべられ、報道からは見えない輪郭を、静かに浮き立たせていきます。

舞台は、地中海にうかぶランペドゥーサ島です。イタリア半島の南端と、チュニジアのなかほどの立地。つまり北アフリカとヨーロッパをつなぐのに最もちかい「点」だといっていい。わずか5500人が暮らすこの島に、最近20年間で、安全をもとめて欧州行きを切望する約40万人の難民が上陸、シチリア海峡で1万5000人もが命を落とすという非常事態が慢性的につづいているのです。イタリア軍や海上警備隊による難民船救出が、昼夜を問わず展開されています。

が、ロージ監督のカメラは、救出作戦とはちがうのどかな島の日常にたえず寄り道をします。それが、難民たちの悲惨を忘れるほどに、じつに生き生きと描写されるのです。
本作の主役となる12歳の少年サムエレは、連日手製のパチンコを手に、悪ガキ仲間との遊びに熱中しています。台所に置かれたラジオの音楽番組の間に、難民船の短い情報が差しはさまれます。
料理をつくるサムエルの祖母は、「ひどい話しね」と呟きつつ受話器をとって『海は燃えている』をリクエストをする。台所と小さな放送スタジオの平穏なやりとりーー。ごく近い距離にいる島民と難民は、意識のなかで遠く隔てられています。

粗末な密航船のSOSをキャッチしてはじまる海上での救出作戦は、島民の目には見えません。収容所の難民が、島民と接触することもありません。
ただひとりの例外が、島でたったひとりの医師。もうひとりの主役といっていいこの医師だけが、島民の診察と掛け持ちで、難民の健康検査、船倉で力尽きた遺体の確認作業に、忙殺されてきました。
「どれほどの遺体を検分したか分からない……」と、現実に対する深い疲労をにじませつつ、しかし彼は、淡々と話すのです。
「難民を救うのはすべての人間の務めだ」
弱視やら体調不良でやってくるサムエレとの、とぼけたやりとがなんともいえず、おもしろい。

前作『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』(2013年)でベネチア映画祭の最高グランプリである金獅子賞を受賞したロージ監督は、この医師から難民たちの状況を聞き、はじめは短編作品を撮るべくランペドゥーサ島に足に運びます。が、サムエルとの出会いやニュースにはなりえない難民をめぐる「風景」を、腰をすえてカメラにおさめるために、ついに移住してしまいます。
エリトリア生まれ。独立戦争のときに家族と離れてイタリアに逃れ、思春期をローマとイスタンブールで過ごした経験が、ボーダレスな旅と生活のスタイルにあらわれているのかもしれません。
本作は、2016年のベルリン映画祭の最高グランプリ・金熊賞を獲得します。ドキュメンタリー作品でもって、ふたつの映画祭の最高賞を獲得するのは希なことです。
近代をつくった欧州と、乗り遅れたアフリカとを隔てる富の壁は、ランペドゥーサ島のできごとに凝縮されています。それを、このようにのびやかに、かつ冷静に描ける人は、彼をおいてはいないといっていいでしょう。
サムエルの行儀の悪い、イカ・スパゲッティーの食べ方がいい。一見、無意味な余白を透過して、できることなら眼をそむけたい現実が、ふっとこちらに近づいてくるようです。

(制作:イタリア、フランス イタリア語 2016年 ベルリン国際映画祭金熊賞 114分 監督:ジャンフランコ・ロージ TOHOシネマズシャンテ他 http://www.bitters.co.jp/umi/


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2017年3月 2日 (木)

漢字の「呪能」

執筆の手がとまっています。
で、暇だというわけではないんだけども、唐末期の詩人・李商隠の漢詩をぽつぽつと読んでいます。注は、中国文学研究者でのちの作家・高橋和巳。いまさらながら、漢字の不思議を思う。

当たり前といえばそうなんだけど、どの詩でも、原文の文字数に比べて、日本語訳文はその数倍となります。
ひとつの漢字が含有する風景は、野原のようにひろい。誤解をおそれずにいえば、一字ごとに宇宙がある。あるいは、物語があるともいえます。
「文字は、ことばの呪能をそこに定着するものであり、書かれた文字は呪能あるものとされた」(『漢字百話』)
漢字学者の故・白川静先生は、こういいました。古代呪術から漢字のつくりを解剖していく、いわゆる白川理論は、中国や韓国にもなかった文字概念の読み解き方法でした。「呪能」とは、人が文字にこめた能力のこと。おどろくなかれ、つまり漢字は実際に、ことを成す「いきもの」だったと、白川先生は考えました。

とうぜん、漢詩を訳すには、さまざまな説明が必要になってきます。が、ていねいすぎると、醍醐味が失われる。いかんせん日本語をそぐ大胆さと繊細さが必要になります。
漢学者家系に生まれた中島敦の文章を読むと、身についたその素養がわかりやすい。ことに古潭を題材にしたときは、削ぎに削いだ彼の文体の持ち味が、生きてきます。

虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再び其の姿を見なかった。

というのは、『山月記』の結びです。

この国の学びの場から漢学が消えたのは、文明開花の明治でした。漢学どころか、脱亜入欧の前線に立った識者は日常の読み書きから漢字を廃止しようとして、これが一定の力を持ちました。
漢字廃止論は実現しなかったものの、不要な教養とみなされた漢文に変わって、「国語」の授業が勃興してくる。国語は、皇国教育の核となります。
漢学をうとんじた近代国家は、漢字をつくりあげた相手、つまり東アジアの大国・清を軽んじました。あげく昭和にはいるや、大陸政策を大きく見誤ることになります。その禍根は、いまなお消えません。日中戦争にはじまる大東亜戦争を
「まことに世界の戦史に類例をみないような、愚かしい戦争であった」(「私の履歴書」)
と白川静先生は語っています。彼にとって大陸への侵攻は「見るに堪えぬ自己破壊の行為であった」のです。

漢字には、原始社会ができてゆく過程や、そのころ暮らしに欠くことのできなかった呪術のようすが詰まっています。見つめていると、いやでも想像力を喚起されます。ちなみに、象形の味をよくとどめ、そのみごとさにわたしがうならされるのは「卵」、「馬」、「皆」、「玄」、「雲」などなど。組みあわせによる意味の生成では、とりわけ「犬」篇の漢字に、驚きをおぼえる。古代、犬は祈りの生け贄でした。犬をそなえ、人はさまざまなことを願ったのです。字の成り立ちを拾い読みしだすと、あっという間に時間が過ぎてしまう。
ちなみに晩年の白川先生は「遊」が、好みだったそうです。

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2017年2月27日 (月)

おつかれさま……

おもいがけず、訃報がとどく。
前回の書籍をつくるときに、たいへんお世話になった方でした。日本の病院にいると知り、あわてて病室に出むいたときは、すでにお会いできる状態にありませんでした。
「すこしはやいんじゃないかなぁ」
とぼやいたならば、彼女は間髪いれずにこうかえすだろうか。
「まぁ、いいじゃない。はやくても、おそくてもそんなに変わらないって」
さばさばしているようにみえるけれども、案外気づかいの方でした。柔らかい心を持ったがために、ことに頓着しない自分を無理にも自分でつくってきたのかもしれないと、思う。彼女と海風に吹かれながら、とりとめのない話しをした午後のことを思いだし、「おつかれさま……」と声をかける。たむけるものがなにもないから、般若心経をささげました。

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2017年2月26日 (日)

このごろのこと


パン屋の2階、いつもの喫茶店でコーヒーを頼んだら、紙コップででてきました。
わたしの動揺は、けっしてちいさくない。あわてて店員さんに申し出ました。
「あの、マグカップでください」
「こんどから、紙カップでしかお出しできないことになったんです」
という返事が返ってきました。作業の効率化をはかったことは、聞くまでもないでしょう(わけあって、経営者が変わったことは知っています)。たかがカップ。どうでもいいことかもしれないが、わたしにはどうでもよくない。
悲しいとまではいわないが、さみしい。


『渡辺一夫 敗戦日記』(博文館新社)を開いていたら、河川のような絵があり、「軍人」と「資本家」という支流が一部で合流して、「戦争」という大河になっていました。1945年5月23日の記。渡辺は東京大学仏文科教授で、本書の編者は、串田孫一ら教え子です。
よく見ると、「軍人」という支流の分岐が「資本家」に合流しておりますが、一方の奔流は、そのまま「戦争」の流れをつくっている。
植民地争奪などにはじまる経済活性化という事情と、軍による戦争のための戦争というふたつの流れでもって、今時の戦争がひきおこされたと渡辺は、みていたらしい。
おなじ日の書きこみで、「この間、知識人は何等の抗議もせず。祖国愛、勇気……そして知性の欠如」という一筆がみえます。
「抗議」どころか、この勢いに便乗しようとした知識層がどれほどいたことかーー。浮かんできた荒涼とした風景が、いまとどれほどちがうのと問われると、こたえに窮するのです。うすら寒くも、さみしくもある。


「イノベーション」を、経済ニュースでよく耳にします。グローバリズム化した経済競争に勝ち抜くには、これしかない、と。
そのとおりだと思う。ただ、そのポジティブな響きのなかには、イノベーションによって産業構造から切り捨てられた労働価値や、それがつくった文化は、微塵もふくまれていない。イノベーションは理屈ぬきに、すばらしいことなのです。
イノベーションのおかげで、いまの豊かさはあります。イノベーションが無数の価値を「過去」のものとしたおかげで。それを否定する気は、毛頭ありません。
拡張に陰りがみえたパイをめぐって競争が過剰になった現在、イノベーションは、ますます頻繁に、際限なくつづくのでしょう。ひとつの技術やシステム、商品はきっと、いま以上に猛烈に姿を変える。するとひとは、際限なく過去と切り離されてゆき、薄氷のような「いま」だけを生きることになる。すばらしい未来が待っているはずなのに、なんだか恐く、そしてさみしい。

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2017年2月19日 (日)

『エリザのために』

〈シネマ手帳〉No43

かろうじて、「家族」の体裁を保っていたある家の窓ガラスが、ある朝、なにものかの投石によって破壊されます。それは、崩壊の序章でもありました。
登場する家庭は、ルーマニア郊外の病院に勤める医師ロメオと、その妻、そしてイギリス留学を目前にひかえる成績優秀な娘エリザ。けれども一見、恵まれた家庭の平穏は、仮面でしかありませんでした。夫婦仲は冷え切り、夫には愛人がありました。
投石があった朝、いつものように娘を送るロメオの車は、学校を目前に渋滞につかまってしまう。車をおりて歩きだした娘は、あろうことか校門のすぐ手間で暴漢に工事現場に引きこまれ、暴行されてしまうのです。
名門ケンブリッジ大学への学校推薦を手にする最終試験は明日です。力をだしきって試験にのぞめそうもない娘をなんとしても援護したいロメオは、迷いつつも、友人を介して町の名士に電話をつなぎ、不正に手を染めます。 0170127at13_t

ロメオの必死さが映しだすのは、娘の成功にすがる以外の希望を持てない、どんよりとした社会の水です。
民主化に期待してルーマニアにもどってきたロメオ夫婦は、鍋底経済を脱することができず、腐敗しきった社会になにも望まなくなっていました。
〈イギリス行きの切符さえ手に入れられれば、娘はここではない世界の扉を開くことができる〉というロメオの悲願は、うらがえせば、自分自身の人生への深い失望です。

祖国ルーマニアにとどまり「社会に一石を投じたい」と訴える監督、クリスティアン・ムンジウ(48)は、欧州映画界に聞こえる有望な若手です。その名は、ここ10年間のカンヌ映画祭にたびたび登場しています。2007年、チャウシェスク政権下を生きる少女たちの違法中絶を題材にした『4カ月、3週と2日』で最高賞のパルムドーム、2013年『汚れなき祈り』で、女優賞と脚本賞、2016年には本作で監督賞を手にしました。が、欧州で高い評価を受けながらも、肝心なルーマニアでは上映館をさがすことすら容易ではない。現実を直視する社会派の表現は、描かれる側の当事者たちには受けいれ難いのです。
「あるていどまとまった数の意識ある人々が動かしてくれないと社会は変わらない」
と、ムンジウ監督は言います。 

ムンジウ監督の作品では、ルーマニア社会の閉塞感や人々の「あがき」が、いたずらに物語化されることなく、そのまま差しだされます。本作でも、同時多発的におきるトラブルは、なにひとつ解決しません。不審な投石者も、娘のボーイフレンドの不可解な行動も、暴行事件、留学の可否もそう。それが、エンディング以降もつづいていく彼ら彼女らの偽らざる現実なのです。
ただこれは、絶望の物語ではありません。もみくちゃになった娘エリザが卒業式にのぞむ表情は、どこか「再生」の芽を感じさせます。

(制作:ルーマニア、フランス、ベルギー ルーマニア語 監督・脚本・製作:クリスティアン・ムンジウ 2016年 128分 ヒューマントラストシネマ有楽町他http://www.finefilms.co.jp/eliza/

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2017年2月15日 (水)

あやしい世界


いくぶん陽がのびました。
午後4時半、まだ明るさを保っている日射しを眺めていると、それだけで気持ちが軽くなってくる。春分は、なるほどうそをつかない。それをこんなにうれしく思うことに、われながら驚く。いままでには、なかったことかもしれない。


日米首脳会談の成果が、大々的に報道されました。尖閣諸島は、日米安保の適応範囲内だというのが、劇的な見出しとなりました。でも時間軸のなかで見ると、台湾にほどちかい無人の小島を日本が領有宣言したのは、せいぜいが120年ほど前。北海道も沖縄も、近代国家が成立した明治以降の、いうならば占領地。「固有の領土」という根拠など、じつはあやしいものなのです。


民政分野の科学技術を軍事技術にむすびつけていくことを、国家が推進しはじめました。軍民両用の基礎研究への手厚い助成は、すでに2015年からはじまっています。
予算元は、防衛装備庁。これにかぎったことでなく、さまざまな分野で「安全保障」への貢献が、評価される枠組みができつつあります。いまに、創作もそうなるかもしれない。
あやしいことを、あやしいと感じにくいーー
のは、なぜでしょう。


安倍首相はじめ閣僚たちは、寺社勢力と緊密です。安倍さんは、伊勢神宮の行事に足繁くかけつける。神社本庁の関連団体も、当然政権を応援する。昨今は、ことに堂々と。
稲田防衛相は、「明治の日」制定を訴え、集会でこうおっしゃった。
「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治の精神だった。その精神を取り戻す、心を一つに頑張りたい」
神武天皇の偉業って、なんだろうなぁ。ともあれ、富国強兵の精神的支柱が、国家神道であったことは、いうまでもありません。
「明治の精神」という魔法は、かようにあやしげな言説をことごとく「神聖」に変えてしまいます。神聖一色の社会というのは、たったひとつの世界観でできています。

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2017年2月 4日 (土)

あやまち

生きていると、日々無数のあやまちをおかします。ちいさなことに傷つきます。そして、おろおろとします。1日生きたら、1日分、傷はふえて、動揺の疲れが積みあがる。
こればっかりは、なん年生きてもおんなじです。無傷で日暮れをむかえられることなど、ほぼない。心はたいてい、波だっては凪ぎ、凪いではまた波たつ。

うなだれて反省しても、やっぱりあやまちをくりかえす。わたくしという人間の無能を、ほとほと恨みたくなる。なさけなく、自分のちいささばかりが胸にきざまれる。きょうも前にすすめなかった自分を、見捨てたくなる。

生きることと、あやまちとは不可分です。
あやまちをおかさずに、いきていくことは……むずかしい、きっと。
夕暮れどきの傾いだひかりは、ほどよくひとを陰影にぬりわけます。暗いところをぬりつぶし、すこしのしろさを浮きたたせてくれる。足早に帰宅をいそぐひとを見ていて
あぁ、ひとにはかならず影とひかりがある
と、思うとすこし動揺がしずまります。

ひとりでビールの栓をぬきたくなるのは、こういうときかもしれません。あやまちをどうやって受けいれるのかも、明日をどうはじめたらいいのかも、とりあえずひとくち飲んでから考えたらいいじゃないか。と、うつむく自分に声をかけてみる。

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