2018年5月 6日 (日)

おぎにり

詩集『おぎにり』をつくってくださった未知谷の営業担当・オガワさん(若いさわやかな方です)と初めてお会いしたとき、彼はあいさつ変わりに、こんなはなしをなさった。
「(営業先の書店では)だいたいどこでも、タイトルについて尋ねられるんです。これって、「おにぎり」のまちがいじゃないですよねって」

ふざけたつもりはありませんが、言いまちがえを、そのままタイトルにしてしまいました。
ですからやっかいなことに、この本は言いまちがえを呼ぶのです。たとえば、献本先からの御礼メールやはがきには、9割以上の方が
「「おにぎり」拝受しました。ありがとうございます」
とお書きになってくる。
言いまちがえの元をこしらえた当人ですから、それが言いまちがえになってかえってくると、ついにんまりとしてしまう。へっへっへっーー

そもそも、どんな悲惨や悲劇を題材にしたとしても、いかに崇高なメッセージを込めたとしても、本質的に詩が「あそび」(と、わたしは考える)であることに、変わりはありません。
日本語はあまり韻律をつくるのが得意ではありませんが、それでもどうにかしてリズムを生みだすためにことばをひっくりかえしたり、とっかえたり。意味をうらがえしたり、あえて草むらにかくしてみたり。こういう行為のすべてが、あそびでなくてなんでしょうか。

さて、オガワさんとのはなしは、どうやって「古典」ではない現代詩を読者にとどけるか。どうしたら、詩を読んでくれる読者をつくることができるだろうか、といったことに終始しました。
あえて言いますと、ここでいう読者は、「詩を一緒に愉しむ仲間」のことです。一般書籍が想定する「読者」という概念を、詩にあてはめることはできない。おそらく、これまで一冊でも詩集を買ったことがある人って、さがすのが難しいほど少ないでしょ。いわゆる「読者」をさがすことは、霧をつかむような行為にならざるをえない。
でも、詩をつくったり読んだりすることが好きな仲間は、じつはたくさんいるはずなのです(と、わたしは信じる)。

とりあえず、規模は大きくなくともこだわりの書店(喫茶店や雑貨店、古道具屋さんなどでも、おもしろそうな人が集うところであればどこでもよし)があれば、まめに歩いてみましょうか、と。そんなことをふたりで確認しました。
みなさま、詩集『おぎにり』を気持ちよく取り扱ってくださる店にこころあたりがあれば、情報をくださいませ。買い取りはもちろん大歓迎ですが、返本可の取り引きもできます。

税込みで1620円、1000冊を準備しました。けっしてお安いとはいえませんが、表紙まわりに上品な和紙をあしらっており、つくりはおどろくほどていねです(そのかわり、強度はイマイチだと未知谷のイイジマさんが、笑っておっしゃった。投げたりたたいたりするもんじゃなから、いいんじゃないかな)。ちなみに、わたしはサイズの釣り合いがいいので、Goffsteinの絵本のとなりに置いています。自分で言ってしまいますが、悪くないですよ。

奥付によれば、発行は5月2日。幸運にも書店でみかけた方は、Twitterなどで教えてくださると、うれしい。「おぎにり」、すでにころがっているはずです。言いまちがえが、どんどこ連鎖しますように。
個人でご注文してくださる方はこちら、未知谷のウェブサイトへどうぞ(http://www.michitani.com/books/ISBN978-4-89642-549-9.html
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※ これっ、採用されなかった挿絵の一枚


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2018年4月30日 (月)

国のためにーー

たまたま顔見知りになった在日ロシア人男性は、わたしとほぼ同年です。彼が育った「素晴らしい国」であったソ連邦は、20代半ばに解体されました。
その彼がいま信奉するのは、プーチン大統領。クリミア併合もウクライナ東部への軍事介入・実効支配にも賞賛を惜しみません。外国に逃れた元情報員や国内のジャーナリストや反プーチン政治家らの暗殺疑惑などまるで意に介さない。すべては「アメリカの陰謀」でしかない。プーチンを熱烈に支援する理由を、彼はこう言いました。
「大統領はすべて国のためにやっています」
どうようの理由でもうひとり尊敬するリーダーを挙げるとすれば、それはスターリンをおいてほかにいないとも。語る表情は、自信に満ちています。プーチンの正義、ロシアの正義を、彼はまったく疑っていないのです。彼を満足させる正義。それが要求する犠牲への想像力は、微塵もなさそうです。

さて、この国のこと。
路上で野党代議士をののしった自衛隊中枢で働く隊員の行為を耳にしたとき、わたしははたとこのプーチン信者の男性の、印象的なものいいを思いだしました。有無をいわさぬ、自信といってもいい。
かの自衛隊員は代議士に
「国のために働け!」
と、声を張ったそうです。
このことばの前提には、「国のため」になっている自分と、「国のために」なっていない無用な政治家、という自明の認識があります。もっといえば、それは明らかな階層意識に根ざします。とうぜん、国防をになう崇高な自分たちの仕事に対し、後者のそれははるかに劣る。

「国のためにーー」
という言葉は、あらゆる一般常識を吹き飛ばします。個人の事情、考え方、多様性、宗教などなど。それが発せられた瞬間、たちどころに人間は明瞭な価値基準にしたがって選別されます。
その価値にしたがうならば、「国のために」ならない人間には、あらゆる社会的制裁も密告も拷問も暗殺だって肯定されることになる。理屈はいりません。国家に無用な人間は、クズなのですから。
それほど、インパクトのあることばだからこそ、それは感情的にも政治的にも公にも個人的にも、思想を異にする他者を攻撃する目的として、決して発せられてはならないのです。

「国のためにーー」と平然と言える人は、往々にして自国が「大国」であることに過大な誇りを持っています。とすれば、自国の意のままにならない国は、踏みつぶしてもかまわない「敵」です。
かつて「国のためにーー」が日本中を席巻していたころ、考え方を異にする人間は厳しく監視され狩られ、戦場となった隣国では凄惨な殺戮と収奪、蹂躙がくり広げられました。
「国のため」ですから、皇軍の行いのすべては正当化されました。

「国のためにーー」が公然と叫ばれる社会は、かなり病んでいるといっていい。法も常識も人情も理論も理性もすべてを超越する威圧を、そのことばははらんでいます。つまりその社会では、ことばがもう力を持てない状態にある。議論や対話などは、まるで意味をなさない。そこには寸分の寛容もありません。
最後は、自分とちがう他者を暴力で圧倒することに行き着くよりない。暗殺、クーデター、戦争が、正義のもとに決行されることになる。五・一五事件も二・二六事件も、血盟団事件も根にはきわめて単純な正義があります。
けれども、そもそも絶対的な正義などありようもないのです。醜悪なパワーゲームの旗印になっている高尚な正義なんて、どれも陳腐なものです。すこしの時間にさらされてみれば、じつに他愛ない欲望と虚栄心にほかならないとすぐにわかるはずです。

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2018年4月13日 (金)

かつてあった鳥の楽園

台地にある駅から線路に沿って西へ。クランク上の急坂を下ったところにあらわれる「忘れられた町」は、川の町です。
坂を下りきったところから、東方向の隣駅までの1.5キロほどの間に、3本の川が線路と十字にクロスする格好で流れています。わたしの家があるのは、一本目と二本目の川の間。
川幅は東へゆくほどひろくなります。三本は下流で合流しています。

引っ越してきて驚いたのは、のんびりとした水鳥の姿です(こんなのは、見たことがなかった)。
ことに川岸がコンクリートで固められていない二本目の川は、江戸のころとそうたたずまいが変わらないのではないかと思えるのどかさ。
草や木が萌える岸と歩道はちかく、しかも数カ所は親水エリアとしてつがっています。
だからすぐ近くで、カモが水面をすべり、サギが餌を漁り、鵜が勢いよく水に潜り込むさまを見学することができます。鳥たちがねらう魚のなかには、ホトケドジョウ、ジュズカケハゼトといったレッドデータブックに名を連ねるものもいます。
これほど澄んだ豊富な流れがあるのは、あたりが湧水地帯だからなのです。
家からほど近い遊水池のひとつは、大きな竹林ごと保存されています。その上流にあるもっとも水量の多い場所は、雑木林がそっくり残され東京都の水道局が一番大きな湧水点を取水のために管理しています。川のまわり、なかからも水はわきだしている。

もう何度も紹介した『逝きし世の面影』(渡辺京二著)に「風景とコスモス」という一章があります。来日した外国人を魅了した江戸は、彼らが欧州では見たこともない「庭園都市」でした。
「江戸には、大名屋敷に付随する庭園だけでも千を数え、そのうち六義園、後楽園クラスのものが三百あったという。それに旗本屋敷や寺社のそれを加えれば、江戸の庭園の数は数千にのぼっただろう」
ことにおもしろいのは、その江戸中心部と、郊外の山野との違和感ない連続性を、外国人たちが奇跡を見るかのようにしきりに記録していることです。つまり、農村部の緑もまた、野生そのもののではない人の手がはいった端正な美しさであったわけです。

水と緑で潤う都市とその近郊が鳥の楽園であったといわれても、いまや想像するのもむずかしい。
江戸十四里四方では狩猟が禁じられていため、鳥は人が近寄っても慌てることがなかったようです。
リュードルフには「鳥という鳥がみなよく人になれている」かのように見えました。ツェンペリは、乱獲がないため「しばしば信じがたいほどの大群がいる」と語っています。
江戸近郊ではありませんが、1863(文久3)年平戸から瀬戸内にはいったアンベールの記述はこうです。
「日本群島のもっとも特色ある風景の一つは、莫大な数の鳥類で、鳴声や羽ば摶きで騒ぎ立てている」
日本全土の城下と郊外が、やはり江戸のそれと似た色調であったのでしょう。

わたしは毎朝ぶちと川辺を歩きます。
都心のターミナル駅から約20キロ弱、5里の距離ですから、この水辺もかつては鳥の楽園だったはずです。
と……ひっくり返せば、「忘れられた町」にぽつねんと残る水辺と緑は、明治の世が否定したなにかだともいえまいか。
江戸城のお堀はじめ町々の堀など、江戸の町をつくっていた水辺は次々に埋め立てられました。水路と自然は都市から放逐され、「信じがたいほどの大群」の鳥も去っていきました。Nipponia Nipponの学名がついたトキなどは、あっという間に激減し、ついには滅んでしまいました。ついでにいえば、オオカミもカワウソも、おなじ時期に追い詰められた。
きっとトキもオオカミもカワウソも、滅んだひとつの文明の象徴なのでしょう。
明治維新とはなんだったのか。
維新を彩る志士の英雄譚はあくまでも政治闘争であり、その窓をどんなにのぞけど、失われた水辺と庭園都市にあった豊かな文明の風景は一向に見えてきません。近代の背を猛烈に追いかけた明治は、「成長」と「消費」のスイッチを押しました。暮らしの価値は、またたくまに一変しました。もう水音も鳥の鳴き声も、無駄なものでしかなかったわけです。

ちかごろ、あんなにわからなかった辻潤が近くに感じられることがあります。江戸の大店・札差の風雅を吸って育った彼の奇矯は、語れるような滑稽でなく、もっと本質的な反逆ではなかったか。それは、切ないほど絶望的で優雅なものではなかったか。
ちなみに、辻潤の肩には小鳥がとまったといわれます。彼はときどき鳥と話したらしい。わたしはきっと、本当であろうなと思うのです。

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2018年4月 8日 (日)

「わすれられた町」あるいは「どん底」

引っ越して、まる2カ月になろうとしています。
こんどの家から、1キロさきの駅に出るには、長い急坂をのぼらなければなりません。あたりまえだけども、駅から家にもどるには、急坂をくだることになるわけです。わたしの足で、ほぼ10分の道のりです。

台地にのっかった駅から、線路に沿って西へむかうこと7分、いきなりその坂はあらわれます。急坂の真下には、老夫婦がいとなむ小さな中華料理屋のガラス玄関。ちょっとこれは奇妙な風景です。坂は中華料理屋につきあたって右に折れ曲がり、すぐ左に折れる。勾配が急なうえ、クランクがまたきつい。「自転車 スピード注意」の立て看板が立つわけです。
のぼる人たちはといえば、そう、たいてい自転車を押すことになる(わたしは、意地でも乗ったままいくが)。

みとおしがきかない坂は、坂のうえと坂のしたを、いやがおうにも分断します。
つまり「町」は、そこでとだえる。坂上の三丁目と坂下の一丁目は、道こそあれど、町としてつながってはいません。
三丁目は、整然と区画されています。駅北口の商業地を囲み、隙間なく落ちついた住宅がならぶ。
対する一丁目には、まず直線の道がありません。舗装道路はつぎはぎだらけ。行き止まりが多く、ところによって突きあたっては曲がり、わたしの家周辺は迷路のよう。さらに道は、もとの地形そのままに緩く波打っている。でもって、じゃりっぱげのように、大きな畑地が転々と残る。

想像するに、地主が農地を少しずつ宅地転用しては切り売りしたため、不規則なサイズの布をはりあわせたパッチワークのような町になってしまったらしい。区画は、どこも不格好です。
駅からそう遠くなく、もっと気が利いた町ができていいはずだけど、なぜかいまにいたるまで行政による計画的な開発の手が、はいりませんでした。町作りの地図から、みごとにこぼれ落ちてしまったのです。

ひとつ隣の駅とのちょうど中間点にありながら、車両も人もめったにここを通りません。人相でいえば、ぽかんと口をあけたような、間抜けたかんじです。坂をくだりきってしまえば、飲食店はおろか、スーパーもコンビニも、そして自販機すらないのも当然といえば当然でしょう。
代わりに、というわけでもないんでしょうが、家のすぐ裏手に、「おいしいよ」の幟を立てた無人野菜売り場があり、のぞくとなにかしら旬の野菜が平台にのっています。ホウレンソウやラディッシュ、カブ、菜の花、ニンジンなどなど。
坂を隔てたこの落差に、正直、わたしはいまだとまどいをおぼえています。毎日、おなじ道をあるくのに、毎日、おなじようにとまどう。
なんだか調子が狂うのです。

去年の夏だったか、道に迷いながら物件の案内をしてくれた不動産屋さんは、なぜだか、こののどかな環境をわたしが高く評価していると勘違いしたらしい。こう言っていましたっけ。
「住民以外の車はまずはいってきませんし、夜なんかもの音もしません。そりゃこの立地ですからね、前から、道路計画はあるんですよ。でも一向に動く気配はないですね。少なくともあと10年は絶対に着工しませんね。いや、ずっとダメかも。安心してくださいよ」
店ひとつない環境が、正直、ありがたいわけがない。生活の利便は、最重要条件です。
もっとも、家族の頭数とぶちというやっかいを抱え、予算と立地(都心のターミナル駅から最寄り駅までの距離と、駅から家までの距離)、引っ越し可能なタイミングをすりあわせると、わたしの選択肢もそう多くはない……

坂をくだりきったところに、線路とクロスして小さな川がはしっています。橋のたもとにポストが立っています。わたしはこれを、「あちら」と、まだ妖怪がいるかもしれない「こちら」の世界をつなぐ窓口「妖怪ポスト」と名づけました(ポストまでは家から2分ほど)。
で、それとなく自分の住む一帯を「わすれられた町」と呼ぶようになりました。
ただ、つめたい風がつよく吹く夜などは、「わすれられた町」にもどるのは妙にさみしい気がして、ひらきなおってそこを「どん底」と、自虐的に呼ばわります。 Img_0184
さって、どん底に帰るかーーといった調子。

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2018年4月 1日 (日)

5年ぶりのカウンター

めったに出かけることのない出版祝いのつどいに顔をだした帰り道、神楽坂まで足をのばしました。
坂のうえの路地にあるその店に寄ることは、家を出る前から決めておりました。ちょうど10年前にある出版社の賞をいただいたおりに授賞式後の2次会を開いてもらったのが縁で、ときおり足を運んでいた店です。
とはいえ、そのカウンターにわたしがさいごに座ったのは、前作を出版したとき。なんと、5年も前のことでした。主人のカオルさんとは、節目ふしめではがきのやりとりがあり、少々の無理を重ねつつのれんを守っている近況は、聞いておりました。だから、会わないまでも「元気だろうかなぁ」「頑張りすぎてはいないだろうか」と、ずっと気にかかっていたのでした。

「あらっーー」と、目をまるくして迎えてくれたカオルさんは、5年前のウィスキーボトルをまだ棚に置いておいてくださった。
小雨の降る夜で、さいわい(わたしにとってだが)、ほかの客はおりません。ごく自然に、それぞれが過ごした5年のことを語りだしました。はなしはつきず、時間はあっという間に過ぎてゆきます。
文字と言葉と出版産業と職業と人生とを考えつづけた自分の5年間を思いながら、わたしはこの店とカオルさんにあった5年のできごとに耳をかたむけました。おたがいに、ことばで伝えられることは、かぎられています。
だから、ひとはことばを手がかりに想像するのでしょう。共有できなかった時間と空間を。
すこしの酒があると、語らいはなお柔らかく、奥行きをもつ。

2階の展示スペースに、絵本がならべられていました。5年前には、なかったものです。
「絵本、いいでしょ。こんなにすこしのことばと絵で、すごくたくさんのことが想像できる。そんな本って、ほかにないでしょ」
と、彼女はたいへんな発見をしたように言いました。わたしは、自分の書棚の一角にすわる絵本の数々を思い浮かべました。で、思いだしてひとつ報告をしました。
「ひさしぶりに本をつくるよ。詩集なんだけど」
これまでわたしが書いてきたドキュメンタリーと呼ばれるジャンルの本とまるでちがうものなのに、彼女は、わたしが詩をつくるということをおどろきもせずに受けとめたようなのです。
「いいね、詩集」
と、にっこりと返してくれました。

店を出ても、なお小雨はつづいておりました。いい夜です。

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2018年3月25日 (日)

あそびのある仕事

住所が変わったため、名刺をつくり直しました。
雑誌原稿から遠ざかったわたしにとって、もはや名刺は取材ツールでも営業ツールでもない。
身だしなみに必要な道具のひとつ、といったところ。そうそうは消耗しません。

すこし前、ある版元の代表から活版印刷の名刺をいただきました。紙に、プレスの痕跡がくっきりとあり、それが微妙な「塩梅」で成りたつ手の込んだ仕事であることを語っている。活字のエッジがたって、ちいさな文字までが、文字としての存在感をはなっている。
紙もインクも文字も、みんな生きているーーのは、ちいさな驚きでした。
〈なんとすてきな……〉
その余韻がいまだ消えず、此度はわざわざ、都内に数カ所のこる活版印刷屋の一軒、新富町駅からそう遠くない工場に足を運んでみることにしたのでした。

小さな間口の工場の奥には印刷機械があって、手前に小机がひとつ。室内には、インクのにおいがかすかにします。
想定外でしたが、ご主人との発注の打ち合わせは30分以上にのぼりました。聞かれたのは、わたしが身をおく業界にはじまり、どんな相手にどんな状況で、それを手わたすことが多いのか、どんなレイアウトや字体が好みかなどなど。
ただ、行き着くところ最後は、「では、そこはまかせていだけますか」「はい、おねがいします」となる。

一週間後、名刺のあがりをみて、わたしは、かの「まかせる」が、どんなことなのかを理解しました。
たしかに、要望どおりのデザインパターンではありますが、天地左右のアキ、文字バランスなど細部に調整がほどこされていて、いうなれば独自の表情につくりこまれていました。
さらに紙は、色や厚手、生地をたがえた4種。注文の200枚を50枚ずつ印刷しています。手わたす相手によって、わたし自身が選択できるようにとの配慮。裏地に濃い草や水の色をのせた「アラベールホワイト」紙や「ハーフエアコルク」紙は、予想もしない愉しい「かお」に仕上がっているではありませんか。
なるほど、「おまかせします」「まかせてください」というのは、「そこはまぁ余白のままで。つくりながら塩梅を加減しましょうかね」という、じつに曖昧模糊とした決めごとなのです。誤解をおそれずにいえば、顔をあわせて時間をとりながらも、どんな商品をつくるかという厳密な「契約」は、じつはなされていない。

あきらかに、この巧妙な仕事には「あそび」がはいっています。あそびというのは、ビジネスの「契約」のそとにはみだすものです。
そのスイッチは、ふたつの条件がそろわないと起動しない。ひとつは、職人の経験値と高い技術力です。
で、昨今、案外むずかしいのが、もうひとつの条件かもしれません。
客や依頼者が、あそびを理解するかどうかです。つまり、あそびは、あそびたい相手があってはじめて成立するのです。書籍の装丁なんかには、この関係性がはっきりとあらわれます。

おそらく、江戸のころの暮らしには、生活道具にもサービスにも、こんなあそびがあふれていました。高度な意匠を凝らした根付けだって、小箪笥、小紋のてぬぐいだって、まぁ普段づかいの日用品ですもの。手間暇を度外視して職人自身が愉しまないと、あれほどの完成度には到達しない。前回紹介した『逝きし世の面影』(渡辺京二著)で述べられているように、仕事の「余白」を社会全体が許容していた時代には、暮らすことそのものに、いろいろな愉しさが散乱していたんでしょう。

決して高いとはいえない名刺のお代をご主人におさめながら、打ち合わせからはじまった作業の手間をしみじみ思わずにおけない。
なんと効率の悪い仕事かーー
そう、「あそび」ともっとも相いれないのが「効率」です。

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2018年3月21日 (水)

はたらくことと「労役」の境界

はたらくってなんだろう。
多くの人は、こんなつまらない問いにつまづくなんて、まるで不毛だと思うでしょう。同感です。
だって、そんなことを考えようが考えまいが、はたらかなくてはいけない現実は変わらないのだもの。
でも、「はたらく」意味を考えずに人生をやりすごすには、あまりにはたらく時間は長いでしょ。

近代以前の日本人の労働の姿に、わたしはひとつのこたえを見いださずにおけない。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)には、わたしたちの曾祖父ぐらいまでの人々が、日常、よく笑った記録が、詰まっています。よく笑う民を支えた労働のようすを子細に書きとめたのは、江戸末期から明治なかごろにかけて来日した外国の商人、技師や研究者たちでした。近代の先頭を切った彼らの社会に存在しない、きわめて不思議な風景であったからです。
東京大学の教授として招かれたエドワード・モースが横浜に上陸した翌日に見た海堤工事の「杙打ち機械」は、滑車にくくりつけた重い錘を人力で引きあげて高所から落とすという素朴な仕掛けでした。
「この綱を引く人は八人で円陣をなしていた。へんな単調な歌が唱われ、一節の終わりに揃って綱を引き、そこで突然綱をゆるめるので、錘はドサンと音をさせて落ちる。すこしも錘をあげる努力をしないで歌を唱うのは、まことにばからしい時間の浪費に思われた。時間の十分の九は歌を唱うのに費やされるのであった」
日光への旅の途中で見た、べつの労働現場もやはり、首をかしげたくなるようなものでした。
「裸体の皮膚の赤黒い大工が数人集まって、いささかなりとも曳くことに努力するまでのかなりの時間を、いたずらに合唱を怒鳴るばかりの有様は、まことに不思議だった」
渡辺氏はこうした記述を多数、引用したあとで、明治のなかごろまで残存していた「徳川期日本人の労働の特質」についてこのように述べるのです。
長いけれども、そっくり引用します。
「むろん、なにもせずに歌っている時間を省いて、体力の許すかぎり連続的に労働すれば、仕事の効率は計算上では数倍向上するに違いない。しかしそれはたんなる労役である。ここで例にあげられている地搗きや材木の巻き揚げや重量物の運搬といった集団労働において、動作の長い合間に唄がうたわれるのは、むろん作業のリズムをつくり出す意味もあろうが、より本質的には、何のよろこびもない労役に転化しかねないものを、集団的な嬉戯を含みうる労働として労働する者の側に確保するためであった。つまり、歌とともに在る、近代的な観念からすれば非効率極まりないこの労働の形態は、労働を賃金と引き替えに計量化された時間単位の労役たらしめることを拒み、それを精神的肉体的な生命の自己活動たらしめるために習慣化されたのだった」(p240~241)
つらい「労役」で稼ぐ庶民たちは、「服従」との境界線に結界をはりました。だれもが持てる手段で。それが、うたうことだったと、いうのです。
うたうことで、彼らは労働という行為を、「労働する側に確保」しました。どんに単純な労働にも、主体性を生かす余地がそこかしこに残されていました。おそらくその主体生成は、「あそび」と表裏であったでしょう。現場には必ずうたがあり、わらいがあった。土木や建築従事者の腕の冴え、芸術の域にたっした日用品の質の高さなどは、名もなき長屋住まいの作り手たちが、仕事と「あそび」の領域を自在に行き来した証拠といっていい。

渡辺氏の視点が一層あきらかになる一節を、もう一カ所から引いておきましょう。
「彼らはむろん日当を支払われていた。だがそれが近代的な意味での賃金でないのは、労働が彼らの主体的な生命活動という側面をまだ保ち続けており、全面的に貨幣化され商品化された苦役にはなっていなかったからである。苦役というのは過重な労働という意味ではない。計器を監視すればいいだけの、安楽かつ高賃金の現代的労働であっても、それが自己目的化としての生命活動ではなく、貨幣を稼ぐためのコストとしての活動であるかぎり、労役であり苦役なのである」(p241)
で、ひとつの問いが投げかけられます。
「徳川期において普遍的であったこのような非効率的な集団労働を、使用する側の商人なり領主なりは、もっと効率的な形態に「改善」したいとは思わなかったのだろうか」と。もっともな疑問です。だれしも当然、そう問いたくなるでしょう。
が、問うた渡辺自身がすぐに「仮にそう思ったとしてもそれは不可能だった」と、きっぱりと打ち消してしまうのです。
なぜか。こたえはあまりに簡単です。
「それはひとつの文明が打ちたてた慣行であって、彼らとてそれを無視したり侵犯したりすることは許されなかったからである」
ここに、「富国強兵」「立身出世」の明治の世がもたらした働きかたと、江戸期の働きかたの決定的なちがいがあります。近代資本主義において、社会のルールをつくる「杖」をにぎったのは、資産家の領主や成功した資本家たち、あるいはその代弁者たる政治家でした。競争原理主義は、低賃金で酷使できる労働力をシステマチックにつくりだしていきました。こうもいえます。それは、産業が成長するための重要な原資でした。
ひるがえって、江戸の社会はどうだったでしょうか。時間をかけて形成した社会的合意でもって、経済成長が適度に抑制され、富に手がとどかない圧倒的多数の庶民が得られる安心やよろこびが尊重されました。効率よりも、労働のなかにある「あそび」が大切にされたといえます。「労役」をつくりださないというバランス感覚が、どんな仕事場にも効いていました。

『逝きし世の面影』を久しぶりに手にとったのは、政府が主導する「働き方改革」ということばに、どうにもなじめなかったからです。働きかたを改革することで、いったいどんな社会をつくりたいのだろうか。
そもそも、はたらくとはどんなことか。その問いにこたえてくれる一冊が、わたしにとってはこれなのでした。
さすれば知りたいことは、ひとつしかありません。はたしてその「改革」とやらは、うたをたりもどすためのものであろうか。

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2018年3月13日 (火)

職業

どんな仕事につきたいの。
わたしたちは、無造作に子どもに尋ねます。この質問、子ども時代のわたしは苦手でした。職業以前に、なぜ、はたらかないといけないのかが、わからなかったから(ご飯を食べるため、というぐらいはわかったが)。「おれもいずれ、はたらくのか。このオトナとおなんじオトナになるのか」と、憂鬱にならざるを得なかったのです。

もうこの世にいないタカハシさんは、「職業」ということについて、こんなことをいっておりました。
「フリだと思うよ、そんなものはさ。自分ならば、プランナーのフリで、こまやんならば、もの書きのフリをして生きてるわけ。じつはその人間の本質と職業は、ぼくらが思うほど深く関係があるわけじゃない。もっといえば、職業なんか生きてくための方便さ」
もの書きへの過剰な自負があった、そのころのわたしは、これに納得しかねた。
「仕事は、その人間そのもじゃないだろうか」というような反論をした覚えがあります。
彼は、おだやかに返しました。
「つかい古された例だけど、ホワイトカラー組に入れた人間は、ブルーカラー組の人々より優れているんだろうか。人気の業界にいる人のほうが、地味な産業、斜陽産業にいる人よりも、人間の価値があるんだろうか。激しい競争に勝ててこそ、優位な職業につけることは間違いない。だからその人に、他者よりも優れている部分があるのは否定しないが、そんなのは人間の能力のごく一部分。どこまでいったって、職業に貴賤はないんだよ。いまの資本主義社会に合った職場に身をおけば、高給にありつける。社会的にも評価される、だけのことだろう。そんなのはたまたまで、人を選別するほどの材料じゃありえない。仕事はなんだっていいんだよ。まず喰っていく。問題はその先で、はたらいて最低限の糧を確保できたその人が、どんなふうに人生を過ごすかだ」
そこにこそ、その人らしい魅力があるんだろう。そう彼は、わたしに教えたかったんでしょう、きっと。
それでも、腑に落ちなかったことは、よく覚えています。

が、ちかごろ彼がいいたかったことが、なんとなくわかるようになってきました。理解できたのでなく、感覚的に、なじむようになったといったほうがいい。なぜだかそのシャツに袖が、すっと通るようになったのです。
いまならば、「そうだね」とすなおにうなずけるはずです。
現実が、ままならないのは、いつだって、だれにとってもおなじこと。希望の仕事に就けるひとなど、まずいない。昨今は、はたらけどはたらけど、暮らしぶりもそんなによくはならない。一日生きれば一日分の、わずらいごとを背負う。
それでも生きなければいけないのならば、「職業」という荷をかかえながら、自分の価値をどこにおき、いかに機嫌よく暮らすことができるか。詰まるところ、人生のもっとも大切なテーマは、それしかないのでしょう。
されば、職業などは、いわば風をしのぐ外套ていどだといっていい。

わたしたちオトナは、職業とはたらくことについて、そのようには子どもに伝えてはきませんでした。競争に勝つ技術と、社会的評価の高い仕事への信奉を、型どおりに教えただけです。言葉で教えずとも、態度やそぶりで、そう伝えたことでしょう。もっとも、わたしもオトナたちから、そんなことを教わってもこなかったけど。
「どうして、はたらかなければいけないの」
「はたらくって、どういうこと」
この問いかけは、いまだつづいています。

そうそう、タカハシさんは一生懸命にはたらくこと、仕事に習熟することは無意味だとは申しませんでした。
「ただね、どうせフリをして生きるならば、格好よくいきたいよね。だから、技術はあったほうがいい、いい仕事ができたほうがいい。こだわっても愉しいじゃない。たまにはムキにもなっちゃう。でも、ほどほどのところもないと。しょせん仕事、っていう力のぬき具合ね」

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2018年2月27日 (火)

このごろのこと


すっかり、ご無沙汰いたしました。
どうにか引っ越しを終えることができました。「ちよちよ」を更新するひとつかみほどの余裕を、ようやく手にしました。
段ボールの山をひとつずつ崩し、足場を確保して机を配置し、書棚をつくり、ケーブル類をはわせて、モデムの設定を乗りこえ、役所に転入届をだし、たんすに服をもどし、免許証の住所を書き換え、ぶちのトイレの位置を定め、こわごわと使い慣れないキッチンで煮炊きをしてみる。そうこうしているうちに、知らない街に来て、はや2週間が過ぎていました。


駅の降り口にスーパーがない、駅に行く途中に急な上り坂がある、駅まで早足で10分強歩くといった生活上の不便はさておき、なんとはなしにまだ漠とした不安を抱いております。足が地に着かずに、漂っている感じでしょうか。
たぶんぶちも、わたしの顔に映る不安をみてとり、あれやこれや戸惑うことがあるのでしょう。


ずいぶんと不要なものは処分したつもりでしたが、箱を開けてみて、なんと荷物の多かったことか。
そのはずで、書籍や小物の仕分けは引っ越し当日までに追いつかず、最後はまるごと箱に詰めることになったのでした。
ひとつずつ所有物の要、不要を判断するのはどだい無理で、思いきって収納スペースごと削るべきだったか、といまになって思ったりします。


南西の方角、住宅地の6軒ほど先を線路が走っています。夜、静かな部屋にいると、上下に行き来する列車の音が聞こえてきます。前の部屋でも夜半、列車の音に耳を澄ませたものでした。長いこと一緒に暮らした「もの」が、着いてきてきてくれたようで、このときばかりは落ちつきます。「もの音」とはよくいったものです。

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2018年2月 6日 (火)

このごろのこと

わけあって早朝の5時起きが一週間続き、ようやく落ちつきました。
で、こんどは引っ越しの準備が佳境です。
あと4日しかないのに、峠の上りはまだまだつづきそう。もとより、あなどってはいませんでしたが、やっぱり手強い。
ことに、昔つかった書籍とコピー資料を思いきって整理したいと思っていましたが、手放すべきかどうか、ふんぎりがつきません。希少な資料だけを残し、いつでも手にはいる書籍は古書店にだそうと決めたはいいのですが、そんなにきれいに線を引けない。

古いコピー資料をめくっていたら、かつて頻繁に仕事をしていた月刊誌の編集者からのメモが出てきました。進行中の仕事が終わったら、すぐに次の企画にかかりましょう。関心あるテーマがあれば教えてほしいといった内容でした。
懐かしいというよりも、他人を観ているような気分になりました。締め切りに追われていたころの自分の姿が、やけにぼんやりとしているのです。
おなじように、あのころの自分も、きっといまの自分を想像できなかったでしょう。
思えば、当時のわたしは「成長至上主義者」でした。大手版元の出版物で名前を売ってなんぼ、担当編集者の評価がすべてでした。表現と思想について深く省みることもないから、おのれの非力をわかっていない。
この5年ほど、どっぷりつかってきた商業出版と距離をとってみて、はじめて自分が砂粒以下の者で、無辺を疑わなかった沃野が、ちいさな痩せた村でしかなかったことに気がつきました。
生命にも、ひとつの産業にも企業にも社会構造にも必ずや寿命があると知ったのも、きっとごく最近です。急激に成長を遂げたものは、また衰亡の速度もはやい。

さて、あとしばらくひたすら物の選別と荷造りです。

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