2023年9月16日 (土)

このごろのこと


思いもかけず、長丁場になってしまいました。いま手がけている書籍原稿のことです。
おそらくこのことと関係あるのだと思うのだけど、いつのまにか、「わかる」ということに、あまり頓着しなくなっていました。
どうにかして、わかろうとする。それは書籍をつくる者としての相も変わらない姿勢。だからこそ、多くの時間も手間も、可能な範囲で金もつかいます。
でもーー。それでもわからないことはある、わけです。どうやっても「観念」は、避けてとおれない。

いまもって事実確認できない要点が2カ所。いずれも問い合わせ済みで、先方の回答待ちです。かりに、その2点に望むようなこたえがなかったとしても、かまわないのです。そろそろ、原稿を閉じないことには、次にすすめませんので。



久しぶりにクロッキー帳に、絵を描きなぐりました。ほどよい南瓜がありましたので。南瓜を机のうえに置くほかに、なんの演出も工夫もない。でんと南瓜がそこにある、だけ。
似たような南瓜は去年も描いていますし、ほかのクロッキー帳にもあります。それでも、南瓜を見たら、描かずにおけないのです。できはともあれ、集中して描いてしまうと、それだけでひと仕事終えた気分でなんだかすがすがしい。まだ正午まえなのに、ビールを買いにいきたくなった。

 

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2023年9月 3日 (日)

このごろのこと

久しぶりに自転車で三鷹まで走りました。新田樹さんのギャラリートークを聞くため(三鷹市美術ギャラリーでの展示「Sakhlin」は本日まで)。
トーク会場はギャラリーと別のビルなのですが、うっかりまちがえてしまいました。さいわい、はじまったばかりの会に滑りこめました。こういうこと、わたしは昔から多い。治らないのだなぁ。

一度目のシベリア鉄道の旅でサハリンの残留朝鮮人(終戦時)の存在に気づいてから、つぎのサハリン行き(2010年)のあいだが14年も開く。この間、彼は上野の池端で声をかけて、若者のポートレートを撮ったりしていました。なぜこんなに間が開いたのか。ギャラリートークでは「自分でなにを撮っていいのかわからなくなってしまった」と話していました。
そうかそんな時期か。そのころ、わたしたちが会ってなにを話していたのかを、つい考えてしまいました。

暑さのせいか往復の移動がこたえました。帰ってきて、湯屋に行くか迷いましたが、横になったら動けない。そのまま寝てしまいました。
夕方になって書籍原稿の手入れをはじめました。もうすこしなのだけど、そのすこしに手がとどかない。が、いま大事なのは手をとめないこと。

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2023年8月27日 (日)

帰るべきところ

一日原稿に没入していると、日暮れには自分がなにをやっていて、いまどんな地点にいるのかが分からなくなってしまう。

夏のその時間帯になると思いだす場面があります。25年もまえ、ウランバートルの郊外に出かけたときのこと。
草原に出ていたヒツジ飼いが村にもどってくるところでした。最後の陽光が、群れを照らしている。影が長くひろがっている。土ぼこりが、ひかりのなかにおどる。ヒツジが道路をわたりだすと、おんぼろ自動車は当然のように止まり、ドライバーがそれを見ている。薄闇が降りてきて、次の瞬間、ヒツジが乾いた空気のなかに音もなく、なんの痕跡も残さずに消えていってしまいそうな錯覚をおぼえるのです。
わたしも、ぼんやりと群れが道路をわたり切るのを見ていましたっけ。なんとはなしに、しあわせな気分で。

特別なことはなにひとつない日常の風景です。群れは、ただ帰るべきところに帰るだけなのです。もう、その時間だから。夕陽が、黙ってそれぞれの背を押している。帰っていくというのは、もうそれだけで美しい行為なのでした。
はたして、自分は帰るべきところに静かに帰っていけるんだろうか。帰るべき時刻に。「迎えがくる」とは、よくいったものです。

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2023年8月23日 (水)

このごろのこと


4月からはじまった腰痛が引かず、ついに電車のなかですわるのさえ、支障がでてきた。重い腰をあげて、整骨院に通院をはじめました。
が、18歳で椎間板へルギアを患って以来のこと。保険診療にならない。たちまち金がなくなる。
その整骨院に紹介された専門医でレントゲンをとった翌日。昨日は猛暑のなか歩いてMRIを撮りました。うっかりしており、財布を気にしていなかった。請求額は約8,000円。
あっそんなになかったぞ!
と思って財布をのぞきこんだら、なんと18,000円もあるではないか。どうしてこんなに現金があるのか考えたのたが、どうもわからない。まぁ、金があって悪い気はしないもの。よさげなビールを買って帰りました。
さて夕方、そのビールを飲んでいたらはっと思いだしたのです。
そうだったよ、あれは税金の追加分の支払いのために口座からおろしたのだ。
こんな穴埋めに汲々としているうち、自分の人生は日暮れをむかえるのでしょう。


ずっと書籍原稿を書いているのだけど、どうやら森に迷ってしまったらしい。出口が見えそうで、また遠ざかってしまった。
こういうときは、行きつもどりつして原稿をいじっても埒が開かない。あきらめて、いま一度初期の取材ノートを開いてみました。
なるほど、だいじなピースがぬけ落ちています。書いてみないと気づかないものなのですが。
いまいちど、このひとにおなじことを聞きなおす必要がありそうです。もちろん、恥は承知です。原稿は一向にあがらず、恥ばかり積みあがっていくのだな。

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2023年8月 7日 (月)

改憲なるホラー

連日、暑いこと。
朝、どうも食べる気力がない。水とコーヒーだけの朝食が2週間ほどつづいています。
さて、これまた古いテクストが眠っていました。いま調べたら、米連邦最高裁のブライヤー判事の退任が報道されたのが2022年1月でした。きっとそのころ書いたのでしょう。1年8カ月もまえになりますが、そのまま掲載します。

 

アメリカ連邦最高裁判事のスティーブン・ブライヤー氏が退任を表明し、短いスピーチを行いました。83歳の彼は、「中学生や高校生、法科大学の院生に話す内容」として、話しをはじめます。
あなたの仕事のどこに意義を感じるか?
過去に受けたであろうそんな問いへのこたえとして、3億3000万人のアメリカ人が、「いろいろな人種、いろいろな宗教」、そして「考え方も人によってまったく」異なるという前提により、対立する事案を裁く難しさを示し、このように言うのです。
「そんな中で奇跡だと思うのは、考え方が全く違う人がいても、法の下でその違いをなんとか解決しようという決意がそこにはあるんです」

「その努力をしない国がどうなっているか、見てごらん」
冷笑する学生への返答を紹介し、彼は必ず持ち歩いているという冊子をとりだして顔の横に掲げてみせるのです。
合衆国憲法の冊子です。
「アメリカ国民はこの合衆国憲法を受け入れ、法の支配の重要性を受け入れたんですよ」
異なる価値観を持つ多様な人々を、包摂する、あるいはつなぐものは法の尊重でしかない。法の支配が、糸のようにか細いか、ロープのように強力かはわからないけれど、それに変わるものはないとの確固たる自信があるのです。
柔和な表情ですが、しかし石を積むかのような確信に満ちた口調。

安倍前首相以来、内閣総理の椅子に座る自民党総裁が、決まりごとのように「憲法改正」への決意を表明するようになりました。
もうわたしたちは、すっかりこれに慣れてしまいました。というか慣らされた。あたりまえのように、「憲法改正」の言葉を受けとめるようになっています。
でも、冷静になってみましょう。国家運営の最高機関を統括する者が、まず「この国の憲法を変えるべき」だと公言する事態がいかに異常かを。国民に対して、このような法の支配を受ける必要がないと言うにひとしいことなのです。
憲法にしたがわない。これは、みずからの力を憲法より上位に位置づけることです。こんな恐ろしいことってあるかい。ホラーだよ。

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2023年7月30日 (日)

天国にちかい場所

連日の猛暑です。
だいぶ体力をそがれてしまいました。
でもって、出かける気力もない。連日、湯屋ののれんをくぐっております。行き詰まったときの逃げ場です。
なに? おまえは原稿を書いていないじゃないかと言われたらぐうの音もでませんが。

本日から原稿作業を再開することにしました。ホントに。
書籍2冊の執筆と、詩稿の整理をどうじにすすめますから、ちょっと覚悟がいるわけです。われながら、こまった事態だと思っている。1冊の書籍については、まだ大事な取材が残っているのですが、じつはこの見とおしが立たない。振りかえってみても、かつてここまでみごとに取材の成果が得られないテーマはないなぁ。
まっ、それでも着地するべきところに着地するのでしょう。どこかで見切りをつけて、書きだすよりないのですから。

気がつけば、仲よくしてくれたヒロセさんが逝ってあっという間に4年が過ぎていました。たぶんヒロセさんがいたら、いい店があるんだけど、暑気払いに一杯やりに行かない?と連絡をくれるころです。電話、鳴りませんな。メール、きませんな。
この夏をのりきれば、ブチが逝ってじきに1年です。猛暑の朝は、やる気のないぶちをゆりおこして、川に歩いていったのに。ぼんやりとさみしい。みんな遠くへ行っていまう。
自分ひとりここに残され、浮き世の仕事というやつに圧迫されつつ右往左往しているというのもな……。なんのための仕事かな……とぼやくと、やっぱり自転車だして湯屋にこぎだしてしまうのです。
わたしにとっては、天国に一番ちかい場所かもしれません。

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2023年7月24日 (月)

論破と階級闘争

ちょっと古いテクストです。なぜか書いたとき、アップするのをやめてしまいました。いまごろですが、そのまま載せます。

 

国家が社会を抑圧すると、必ず起きることがあります。
その環境下で優位にたとうとする者たちの競走です。自分がどれほど、抑圧する側の体制に同化できているかを競うのです。
わかりやすくそれを誇示するには、同化できないがために弱者となり、マイノリティーとなる側の人をたたいてみせること。それって、現状の競争原理の正しさを主張することにほかならない。権力とかマスメディアとは、親和性がよいのです。
「論破」というのがウケるわけです。

いまの世に合致しているかどうか
というのが、ひとつの価値の目安になっているようです。それは拡散に向く言葉、あるいはビジュアルか。そうでないものは、一段低いところに位置され、振りむかれることがない。

いまあるものをそのまま肯定できない人は、いわゆる「現実主義者」ではないと見なされます。
論破が好きな人は、論法を代えては現実を肯定してゆくことが巧み。その方法は、あきれるほど幼稚なもので、相手のどこかに切りつけて、笑ってやるだけでいいのです。たとえば「すわりこみ」という言葉じりをとって、24時間「すわっていない」というふうに。すわりこみをせざるを得ない、問題の本質などおかまいなし。ひたすらその一点を切りつける。それに無数の「いいね」がついてきます。ようするにウケるのです。数と量で、「論破」は相手を圧倒する。

相手を負かすテクニック「論破」にとらわれていると、よく見えないことがあります。
「論破」そのものが、いわゆる適合競走だってことが。現実の社会システムに合致しているかどうかを、みなが競っているのです。「いいね」もまた、自分がこっち側であるというアクション。
「いいね」で他者を貶める。それも、弱者やマイノリティーを。
起きていることは、じつは社会の下層における熾烈な序列争いです。下層の民は富裕層には、闘争をしかけない。

この数日、SNSで「階級闘争」という言葉をよく目にしました。出どころは辺見庸氏のツイート
「いま苛烈な階級闘争がしかけられている。無産者のブルジョワジーに対するそれではない。富裕層による「上から下への階級闘争である」
この階級闘争は、マルクスの言う階級闘争とは正反対のベクトルに力が働く。
つまり富裕層がつくった、あるいはつくろうとしているシステムに、ひたすら搾取する者たちが順応を試みているわけです。抑圧に抗する力は、富者や権力者には向かいません。

防衛政策の歴史的転換。5年総額で43兆円を防衛費に投じると。そのために国有財産もどんどん売却するわけです。
「美しい国」というイデオロギーを全面に押しだしてきた自民党の姿は、いよいよあきらかになりました。ようするに、富裕層がのぞむ社会が「美しい」のです。ただし、税から捻出する公金を、直接彼らの懐にいれるわけにはいかない。彼らの地位を保証し、富める仲間たちをもっと潤すようなシステムを、自民党はせっせとつくっているわけです。オリンピックみたいな巨大イベントはまさにそうで、砂糖の山は力のある者のために積まれるわけです。力のある者の眼前に。
イベントなんか名目でしかなく、あからさまな搾取なのです。でも、民は抵抗しない。連帯しない。この搾取をまるごと受け容れて、下層のなかでの上位を、いよいよみなが必死に目指す。メディアはこれをおもしろがって、「論破」に長けた人物を懲りもせずに招き、愉快な論破シーンをを下卑た笑いとともに垂れながす。
闘争にもならない階級闘争は、こうやってエンタメに変換される。

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2023年7月17日 (月)

無駄ごと、やめ!

つかれきって、いよいよ体調をくずしそうな。
こういうときは、極力なにもしないにかぎります。朝方に部屋を掃除すると、すでに汗だくです。シャワーを浴びてからエアコンをいれて横になりました。

なにもしたくないーー
はずなのに、なにかしようとする。
そろそろやらないといけない原稿に手をつけようとしたけども、やっぱりやめました。
なんとなくはじめると、なんとなくの「しごと」になってしまうもの。

「近代的な労働規律や資本主義的な監視技法はまた、最初は植民地における商船や奴隷プランテーションで発達した全般的〔全制的〕支配の諸形態が、本国で労働する貧民たちに課されるようになったという特異な歴史を持っている。だが、それを可能にしたのは、新しい時間の概念構成だった。わたしがここで強調しておきたいのは、この変化が技術的側面と道徳的側面をともにはらんでいたことである。(中略)中産階級は、貧民が貧しいのは、おおよそかれらが時間の規律を欠いているからだと見なすようになった」(『ブルシット・ジョブ』(岩波書店 P129)
と、デヴィッド・グレーバーは言っております。こうして貧民は産業革命のなかに「賃金労働者」として投げこまれてゆくわけです。
「新しい時間の概念」というのが、おもしろい。そもそも売り買いできないはずの労働者の時間を、資本家たちは買い集めます。効率的な生産システムをまわすためにです。以降の産業技術の発展は、けっきょくここを出発点とすることになります。働くモラル(道徳概念)もまたそう。

自分の本を読んでほしいという欲求はつねにあります。でも、そんな宣伝をやってみようかと考えていると、とたんに読むほどのものかとも思う。そうなんだ、読むほどのものじゃないものをつくるのに、毎度まいど、おおくの勢力と時間をつぎこむのです。本はまさに無駄でできている。だから、おもしろい。

アスファルトのうえは40度以上あるにちがいない。
湯屋にゆくぞ。セミが鳴くうちに。無駄ごと、やめ!

 

 

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2023年7月 9日 (日)

報道かな 広報かな

数日まえでしたか、NHKの夜のニュース番組で、安倍元総理への銃撃事件が起きた奈良の高校生数人に、記者がインタビューをしておりました。
「銃撃事件の前と後でなにが変わってしまったか?」
安倍氏と記念写真を撮ったことがあるという高校生曰く
「なにがあろうと、言論には言論で対抗しないといけない。絶対に許せないことだと思った」
およそ、こんなこたえであったろうか。わからないのは、事件があった地域の高校生にこの質問を向ける意味なのです。
「許せない」をこんな安直な質問で引きだして、電波に乗せる安直な正義よ。
あなたは、事件のまえとあとでなにが変わりましたか?
ことが、同時多発テロや東日本大震災などとおなじインパクトの社会的事件である。そういう前提がなければ、そもそもこの質問は成り立たちにくいでしょ。
すこしちがうはすです。重大な事件ではあったが、社会や個々人の価値観そのものを一転させるような、出来ごととはいえまい。

さらに問題に感じたのは、だれもが選択不可能な質問であったこと。
安倍氏当人はじめ自民党と統一教会の危険な関係ではなく、報道側は「事件」そのものをテーマにしてしまったのだから。となれば、ふつうの人が公然と殺人を肯定できないのはあたりまえなのです。
安倍氏が、権勢をふるった8年間、現在の高校生が社会と政治について考える機会がどれほどあったろうかと、この質問者(番組製作者)は考えなかっただろうか。小学生、中学生、そして高校に入学したばかり、でしょ。
政治を私物化し、路上のヤジさえ排除する社会をつくった為政者の像を、時間が経ったのをいいことに、都合よくつくり変えようという意図を感じたのは、性格のよじ曲がったわたしだけだったかな。かたちを変えた現岸田政権の広報番組である。堂々とそういうのであれば、腑に落ちます。

 

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2023年7月 6日 (木)

このごろのこと

あぁ、7月になっちまったな。
やること山積だけど、走れない、歩けない、気張れない。でもって、気も晴れない。

静かな夜です。といっても、ここに引っ越して5年、夜がさわがしかったことなど一度もない。人どおりもまれな場所ですから。音といえば、2ブロック向こうを走る列車の音ぐらい。これがないと、さみしいかな。

夜風が南西向きの窓からはいってくる。
下り電車のあかりが、家と家のすき間を駈けぬけます。上り電車の灯も駈けぬけます。じきに7月6日が終わります。まもなく7月7日がはじまります。
どうして生きているのか、わからない。というか、どうして生かされているのかが。

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