ちょっと古いテクストです。なぜか書いたとき、アップするのをやめてしまいました。いまごろですが、そのまま載せます。
国家が社会を抑圧すると、必ず起きることがあります。
その環境下で優位にたとうとする者たちの競走です。自分がどれほど、抑圧する側の体制に同化できているかを競うのです。
わかりやすくそれを誇示するには、同化できないがために弱者となり、マイノリティーとなる側の人をたたいてみせること。それって、現状の競争原理の正しさを主張することにほかならない。権力とかマスメディアとは、親和性がよいのです。
「論破」というのがウケるわけです。
いまの世に合致しているかどうか
というのが、ひとつの価値の目安になっているようです。それは拡散に向く言葉、あるいはビジュアルか。そうでないものは、一段低いところに位置され、振りむかれることがない。
いまあるものをそのまま肯定できない人は、いわゆる「現実主義者」ではないと見なされます。
論破が好きな人は、論法を代えては現実を肯定してゆくことが巧み。その方法は、あきれるほど幼稚なもので、相手のどこかに切りつけて、笑ってやるだけでいいのです。たとえば「すわりこみ」という言葉じりをとって、24時間「すわっていない」というふうに。すわりこみをせざるを得ない、問題の本質などおかまいなし。ひたすらその一点を切りつける。それに無数の「いいね」がついてきます。ようするにウケるのです。数と量で、「論破」は相手を圧倒する。
相手を負かすテクニック「論破」にとらわれていると、よく見えないことがあります。
「論破」そのものが、いわゆる適合競走だってことが。現実の社会システムに合致しているかどうかを、みなが競っているのです。「いいね」もまた、自分がこっち側であるというアクション。
「いいね」で他者を貶める。それも、弱者やマイノリティーを。
起きていることは、じつは社会の下層における熾烈な序列争いです。下層の民は富裕層には、闘争をしかけない。
この数日、SNSで「階級闘争」という言葉をよく目にしました。出どころは辺見庸氏のツイート
「いま苛烈な階級闘争がしかけられている。無産者のブルジョワジーに対するそれではない。富裕層による「上から下への階級闘争である」
この階級闘争は、マルクスの言う階級闘争とは正反対のベクトルに力が働く。
つまり富裕層がつくった、あるいはつくろうとしているシステムに、ひたすら搾取する者たちが順応を試みているわけです。抑圧に抗する力は、富者や権力者には向かいません。
防衛政策の歴史的転換。5年総額で43兆円を防衛費に投じると。そのために国有財産もどんどん売却するわけです。
「美しい国」というイデオロギーを全面に押しだしてきた自民党の姿は、いよいよあきらかになりました。ようするに、富裕層がのぞむ社会が「美しい」のです。ただし、税から捻出する公金を、直接彼らの懐にいれるわけにはいかない。彼らの地位を保証し、富める仲間たちをもっと潤すようなシステムを、自民党はせっせとつくっているわけです。オリンピックみたいな巨大イベントはまさにそうで、砂糖の山は力のある者のために積まれるわけです。力のある者の眼前に。
イベントなんか名目でしかなく、あからさまな搾取なのです。でも、民は抵抗しない。連帯しない。この搾取をまるごと受け容れて、下層のなかでの上位を、いよいよみなが必死に目指す。メディアはこれをおもしろがって、「論破」に長けた人物を懲りもせずに招き、愉快な論破シーンをを下卑た笑いとともに垂れながす。
闘争にもならない階級闘争は、こうやってエンタメに変換される。