2020年4月 8日 (水)

「ていねいな説明」要旨


特別措置法第32条に基づく「緊急事態宣言」を発令する昨夜の記者会見では、安倍首相が持ち前の「ていねいな説明」を心がけてくださいました。ていねいすぎて、かえって政府の方向性がみえなくなってしまったのではないか、なんていらぬ心配をしたのは、わたしだけでしょうか。いち国民としてきちんと理解しようと、質疑内容も含めてわたしなりに要約してみました。
「状況をみるかぎり、新型コロナウィルスは、わが国においては中国や欧米諸国ほどの驚異とはなっていません。したがって、国は強制力をともなう移動制限はいたしません。行動を自粛してみなさんの努力で感染拡大を防いでください。あくまでも要請ですから、生じる結果もみなさま次第。もし、自粛によってみなさまの生活が苦しくなったとしても、政府が支える責任もございませんからね。そこ、ヨロシク」
総額108兆円をぶちあげた「世界的にも最大級の経済対策」は、じつは支給対象をしぼりあげて自己申告制として、多くの庶民が安易に使えないように設計されていました。(予想どおりですが)さすがです。

ほんとうにすごいなこの内閣は、と関心した部分は多々あるのですが、ことに驚かされたのは、基本的な説明の方法についてで
「人と人の接触機会を最低7割、極力8割削減することができれば、2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができる」
との前向きな見解でした。
なるほど、そうですか。
ならば、どのような施策によって「接触機会を7割、極力8割削減する」つもりなのかを教えていただきたい(記者さんはだれも訊かなかったけど)。そのための「緊急事態宣言」であるはずですから。しかし、この話はこれっきりだったのですーー
行動制限はしない。しかし、個々人の「接触機会を7割、極力8割削減」したい。
ここをどういうふうに、わたしたち国民は理解すればいいのでしょうか。マジックか神頼みだというならば、まぁうなずきたい。
が、そうでもないらしいのです……

安倍さんがさらりと「すべては皆さんの行動にかかっています」とおっしゃたのを、覚えておりますでしょうか。これはなかなか言えない。ようするに、パンデミックと医療崩壊、増す一方の生活負担を「自己責任」でどうにかしてくださいと、力強く公言したのです。
あの会見のもっとも確実な成果は、じつは国と国民との間で「自己責任」を了解(政府はしたと思っている)し合ったたことなのです。
そのメッセージを、中継で会見を見守ったどれほどの人が、受け取ったのかちょっと不安です。わたくしごときがたいへん僭越ですが、安倍さんに代わってそこは重ねてお伝えするのがよかろうと思った次第です。

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2020年4月 5日 (日)

マスクと竹槍

新型コロナウィルスの拡散防止を連日協議している日本政府が、最初期に打ち出したアイデアを、わたしたちは安易に忘れるべきではないでしょう。全国民に「和牛券」と「お魚券」を配っちゃおう、です。
まさかね、とだれもが思ったはずです。
打撃を受けた生産者への救済処置だということらしい。ついでながら、「メロン券」と「マグロ券」というのも(大まじめに)議論の俎上に上がったようです。
もっと驚愕させられたのは、外食や旅行代金の助成です。
いわゆる「和牛券」やら旅行の助成案をメディアが報じだしたのは、3月20日過ぎ。人の移動をどのように規制していくかが、喫緊の課題になっていた時期ですね。すでにイタリア、スペインの医療現場が破綻し、欧州の一部で都市封鎖がはじまっていました。いったい安倍政権の、この陽気な発想はどこからくるのでしょうか。
二転三転した末に安倍さん(総理大臣だよ)が決断したのは、各家庭へのマスク2枚の配布、でした。
だれも、これは想像できなかったでしょう。ほんとうに脱帽です。

日々、猫の目のように変わる政府の対策協議ですが、もうすこし長い目で見ると、気づかされることがあります。ある意味、彼らの考え方は一貫しているのです。ぶれていない。
彼らがまず最初にやろうとしたのは、ウィルスの拡散をどう遅らせるかではなく、消費の振興という景気対策であったこと。どさくさにまぎれて、票田となる特定団体に大きなお金を落とそうとしたことです。
つまり、アベノミクスの延長で、一連の施策を発想していたのです。おどろくべきことに。
「総理、マスクを2枚も配ってやれば、国民は安心するでしょう」と官僚に進言されて、「なるほどなぁ」と納得してしまうわけです。
ついでながら、いま検討中の休業補償の対象から風俗業は除外する方針はかなり固そう。これも一貫している彼らの考え方です。人を選別し、分断する。生活と生命を救済することにおいて、救済に値しない「非国民」を名指ししたようなものです。

いわゆる「アベノマスク」が大々的に発表されたとき、わたしがとっさに思いついたのは、「竹槍」でした。
あぁそうか、ここは竹槍の国だった。

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2020年3月29日 (日)

山口八九子 句と画

最近、この部屋にやってきた山口八九子(1890〜1933)の画集は、でかい。書棚には、天地をひろくとった画集だけの一角がありますが、外箱入りだと、頭がつっかえて収まらない。二重箱になっており、外形のサイズは30×42センチになります。限定500部也。
刊行は2008年です。いくら自費とはいえ、昨今これだけの造本には、まずお目にかからない。

でも、書をひらくと、彼の画力の前にうなずかされる。このサイズは、落とせないな、と。
その八九子ですが、まず知っている人はいないでしょう。そのはずで、京都画壇の知られざる逸材は、没後75年にしてようやく、唯一の作品集を残したのですから。それがこの、驚くほどぜいたくな造りの『山口八九子作品集』。
作品の選定と書籍デザインや造本は、かんらん舎の大谷芳久氏、伝記と年譜、基礎データの確認作業は早稲田大学の丹尾安典氏が担当しております。
で、この画集のもうひとつの楽しみが、年表にぽつぽつと挿入されている俳句なのです。

うらゝさに鉛筆のこころを尖らしたり

森の木落葉して君の家明るし

松の木に小猫かけ上がり三日月

この人の絵は、句と一対で味わうと、なんともおもしろいことか。
と思い、画集の刊行を人生最後のつとめとした娘・由李子さん(故人)の「刊行にあたって」に目を通したら、こんな一節がありました。
「健康にめぐまれぬ父ではありましたが、晩年にいたるまで、たゆむことなく句作と画作には、いのちをそそぎつづけました。俳句と絵の両輪があったからこそ、父は「生」という道程をなんとかたどってゆくことができたのだろうと推察いたしております」

八九子は、ふたつの道に精進しました。が、それは「両輪」であり、表裏なのです。
二芸に通じた表現者は、八九子ばかりではありません。河鍋暁斎も、幼少より習った能は堪能でした。古田織部亡きあとに数奇者の第一人者となった小堀遠州は、数々の庭園と茶室を作り建築デザインに力を発揮しましたし、富岡鉄斎は、多くの篆刻を自分で手がけました。自彫の落款デザインで、一冊をつくったほど。
一芸に秀でる者はもうひとつの技を持つ、というのはふるきよき芸道のならいです。それは決して、多芸となるためではない。
表現の「ゆとり」とか「あそび」、武道でいう力のぬき加減といった感覚を、昔の人たちは、ふたつの道を行き来することで身につけていったのでしょう。
いまでも、噺家さんなんかは、つとめて習い事に精出すよね。たしか春風亭一之輔師匠は踊りの稽古に通っておりましたし、その師である一朝師匠も雅楽(横笛だったと記憶しておりますが)の名人だったはず。

八九子の句も、画業あってこそかように冴えたのだといっていい。選を迷いますが、次のふたつも捨てがたいのです。

麦秋煙る辻に訪わんとす君に会ふ

牡丹描かんとする筆の穂の太さ

年表の昭和八(一九〇三)年のところに「初夏、胃腸を病む」「十月二日、死去」とあります。
ここに添えられた句もじつにいいのです。

鳴く虫に送られてゆく鳴く虫に

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2020年3月28日 (土)

このごろのこと



朝、ぶちと歩き、そのあと一人で走りに出たきり、家におります。
岸には、川面につきだした枝にとまるカワセミがおりました。個人的に幸運の鳥だと思っておりますが、だとすれば、週1〜2回は幸運に恵まれないといけないことになる。まれには2羽に遭遇することもあり、その日は、もう大当たりなわけです(が、どうもそうなってはいない)。
もっとも幸運とはなんだろうな
カワセミはこう言うでしょうか。
そもそも、おまえは幸運がなにかを知らない。あるいは、こっちも日々忙しいのに勝手に「幸運の鳥」扱いされるのは迷惑なはなしなんだが、というかもしれません。
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家にこもると決めてしまえば、それはそれで悪くない。
もともと、交友範囲も活動範囲も狭いんだもの。
コーヒーを3杯も飲み、『山口八九子作品集』を開いていたら、雲がたちこめ、強い風が窓を打つようになりました。
あっ降りだした。
こうなると、ますます部屋はいい。カワセミも、そろそろ岸辺の巣穴にもどるころでしょう。

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2020年3月21日 (土)

続々 かんらん舎のしごと あるいは血風録

「かんらん舎の残した仕事」の最後、4つ目は「八重洲時代の企画展示」である。
すでに現代美術の大仕掛けに終止符を打って久しいかんらん舎は、2001年に八重洲の小さな1室に移転してから、ささやかな展示をはじめた。
閉廊を前に大谷が記したところによると、「八重洲に移って展示を再開したのは、藤牧義夫に関する情報収集のためであった」(最後の「ひとこと」)という。
当然ながら、藤牧版画の真贋検証に費やした多くの時間は、この時代に重なることになる。その言葉どおり、藤牧作品を題材にした展示は、計7回にものぼった。
とはいえ、である。19年間で130回におよぶ展示を一覧にしてみれば、それもごく一部であったといえる。「奔る」とでも形容するしかないような自在さが、この展示の見物であった。それを大谷がどれだけ意識したのか、しなかったのは知らない。
ただ、ここにいたるまでの試行錯誤により、かんらん舎が涵養してきた思想が、八重洲時代の企画展に凝縮されたのはまちがいない。

5歩も歩けば向こうの壁に足がとどく。そんな4面のスペースに、大谷は最小限のモノを置いた。「飾る」、あるいは「展示」するというよりも、「置く」という表現がぴたりとくる。壁の四方を見わたすのに、さして時間はいらない。
置かれたのは、現代美術の作家物ばかりではなかった。無名の知的障害者の手による画文様があり、浮世絵もあり、貝殻もあり、丹念な手仕事を物語る一切れの古布もあり、近代の工業システムでいっとき量産された安物の絹もあり、鉱石もあり、化石もあり、水石もある。さらには、貝と芭蕉布が同席したり、朝鮮の黒板とクネーベルのドローイングが向き合ったり、藤牧義夫と農民作家の池田一憲が顔を合わせたり。

毎回、手紙で届いた展示の案内は、決まってA4の紙1枚きり。天地左右にたっぷりの余白があり、あるじの「ひとこと」がつづられている。左上の宛名だけは、必ず手書きであった。そのうちの3枚から、一部を引いてみたい。たとえば、2002年「12月の展示」《黒》はこんな具合だ。

 1992年の冬、クネーベルの5度目の展覧会は「黒い絵画」のシリーズだった。ドリルや鋸の線が画面の中央を疾走し、その痕跡をタールのような黒色が被っている。「これは凄い」と全て買ってしまったのだが、今もって売れる気配はない。
 2002年の夏、ソウルの仁寺洞の古美術店で一枚の黒い板を見つけた。画面にある幾多の線の痕跡にしばし見入ってしまった。朝鮮半島にもクネーベルのような作家がいたのかと店の人に尋ねると「これは李朝時代の黒板です。水で描くんですよ」「えっ!」この一枚の黒板の上に何十万回の描いては消えた朝鮮の人々のドローイングがあるのか。ひとり感動し、私はこれを買い求めた。

2003年の「4月の展示」《まなざし》では、ハミッシュ・フルトンと栗田宏一を並べた。

 2002年春、近くの画廊で栗田宏一君の「土」の展示に出会った。鉱物の結晶美に魅入ったことはあるが、「土」まで思いは至らなかった。「土」達は地上の鉱物的素材を蓄積し多彩な色を放ち輝いていた。「土は美しい」そのことだけを彼は伝えたいのだという。
 「土」から全ての生物は生まれる。思想家ルドルフ・シュタイナーは、植物の中に地上の死んだ素材が生きており、その色が「緑」であると説いた。「緑」の植物群は酸素を生みだし、動物たちを生かしてくれる。われわれ人間だけが自然界の循環をゆがめ、今も川や大地を汚している。
 アンドレイ・タルコフスキーの映画「ノスタルジア」、ドメニコの最後の絶叫が胸をうつ。
「自然を見れば分かることだ。生命は単純なのだ。
 原初に戻ろう。道を間違えたところに戻ろう。
 生命のはじまりに! 水を汚さぬところにまで!」

鉱石や握斧、石斧、石鏃など100種がならんだ2012年の「11〜12月の展示」《ミネラルフェアー》の便りは、こんなふうだ。

閃くウラン鉱は18世紀末に発見され、19世紀の終わり、キュリー夫妻がこの鉱物に放射性物質が含まれることを突き止めた。のちに、この鉱物から抽出したウランに中性子を照射すると核分裂反応が起き、膨大な熱エネルギーを放出することが判明する。すぐさま武器への転用が図られ、1942年、フェルミは原子爆弾製造に必要なプルトニウムを生成するため、シカゴ大学で原子炉実験を行った。そして1945年8月6日広島、9日長崎へ原子爆弾は投下された。ヒトが地球に出現して最初に作った道具は武器であった。大量殺戮兵器の製造はこの時から宿命づけられていたのかも知れない。

お気づきかもしれないが、この「ひとこと」が、一見脈絡のない展示物たちをつなげる導線になっているのである。封を切って「ひとこと」を一読したとき、すでに読み手はかんらん舎のドアを半分開けているのだ。1枚の紙に展開された「世界」が、実際どのように展示されるのかを自分の目でたしかめることが、かんらん舎を訪ねる「意味」なのであった。だから、広大なスペースをもって、見るものを圧倒するほどの作品をそろえてみせる必要など、さらさらなかったのだ。

四方の白壁の前に置かれた作品は、あたかも作家の創造物であることをいったん返上し、漂白されたモノとなるようである。そのモノが、「ひとこと」によってつくられる関係性により、作家も意図しなかったかもしれない、なにがしかの「性質」を帯びる。で、逆に見るものに問うてくる。
そこから、なにが見えるのか、と。
思うに、大谷の「ひとこと」というのは、モノとモノの間にひとつの点を打つ行為なのである。その点によって、見えなかったり、忘れられたり、聞こえなかった世界がたちあらわれるのだ。
点とは、新しい座視、すなわち窓である。もともとなかった座視は、画廊に立つ者たちに、観る主体性をうながすことになる。

すこし脱線したい。
社会を形成する人間は、いつからかおのずと「複数の座視を持つ」という知恵を身につけるにいたった。これが人間らしさの起源だと、わたしは思う。
人間が人間らしく生きるためには、自分自身とは違う視座を、自分のなかに持たないといけない。他者を理解するための「もう一点」を、人は、獲物をとらえたり、耕作したり、ひょっとしたらやむことのない殺し合いの歴史を通じて獲得していったのではなかったか。
神の発見である。やがて、信仰が生まれる。
神の目を意識したとき、人はより理性的に欲求と折り合いをつけることができるようになった。利害をも乗り越える信頼関係を他人と築くこともできるようになった。
「個」を深く意識するようにもなり、どうじに他人の「個」をも意識し、たがいの人格を尊重しあうことも可能になった。

かんらん舎は、「八重洲時代の企画展示」で、美術作品を通してせっせと座視をつくった。振り返ってみると、なにげない美や、創作の精神を照射するさまざまな座視が、そこに提示されていたのである。それらに共通しているのは、作品と作品の交点に、人の弱さと、そしてその裏返しの強さを浮かび上がらせていることである。この数日、19年分のすべてを読み返してみて、はっとさせられたことがある。「ひとこと」のなかに、戦争や差別を射ぬく言葉がいかに多くちりばめられていたことか。

モノとモノ、時間と時間の間にひとつの点を打つ。と、そこにあらたな視座が生まれる。「思考」は、その一点からはじまる。この11年、かんらん舎に通って愚鈍なわたしが学びえたことは、たったそれだけである。
そのことを、どうしても書き留めておきたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020年3月11日 (水)

続 かんらん舎の仕事 あるいは血風録

かんらん舎の残した3つめの仕事は、藤牧義夫版画の真贋検証である。
これは、前2つの仕事と、すこし質が異なるかもしれない。「早逝の作家達」シリーズと、欧州現代美術の発信は、美術商の「仕事」として見た場合、理解はそう難しくなかった。ビジネスとして成立しているのだ。しかし、3つめの仕事には、その物差しがまるで役にたたない。

かんらん舎が、現代美術の大がかりな企画展から撤退して7年が過ぎたころだ。大谷は、かつて「早逝の作家達」シリーズに登場させた藤牧義夫の代表作「赤陽」に、再び目を落とすことになった。
赤陽は1点しか存在しない。所蔵者はそう断言していた。が、なぜかその所蔵者自身が2点を所持しており、この2点が、じつは同じ版木を使った別作品ーー随所に変更がほどこされているーーであったという奇妙な事実が、彼の前に置かれるのだ。初め、この不可解さを指摘したのは、随筆「気まぐれ美術館」で知られた現代画廊の店主・洲之内徹であった。作品の真贋に鋭い目を向けた洲之内だったが、しかし、そのこたえを出す前に他界してしまう。
謎が、まるごと謎のまま残されたのである。藤牧義夫のいわば「発見者」である大谷が、このやっかいな包みを紐解くのは、必然であったかもしれない。2000年、1年をかけた検証の成果を、彼は美術誌に発表した。結論はこうだ。所蔵者の手で、美術誌に何度も登場してきたもう1枚の赤陽は、他人の手による改竄作であるーー
これに端を発した藤牧の全作品におよぶ検証は、2010年の11月に発行される大著『藤牧義夫 真偽』に詳細にまとめられることになる。
費やした作業時間は、1999年から足かけ11年におよぶ。

さて、あらためて考えてみたいのは、この地道な仕事がいまも、検証結果以外のなにかを示唆できるのだとすれば、それはなんであろう、ということだ。大谷は、美術系同人誌『一寸』で検証の過程を逐一、報告していた。が、かんらん舎の企画展を経て、藤牧版画の新たな所有者となっていた美術館関係者の多くは、これになんの反応も示さなかった。あるいは、そんな検証報告は、存在しないかのごとく振る舞った。もっといえば、煙たがった。
なぜであろうか。

改竄作と判断された藤牧版画の元々の所有者であった版画家・小野忠重は、消えた藤牧とともに活動した創作版画黎明期の生き証人であり、版画研究・批評の第一人者として、美術館とは浅からぬ親交を持っていた。その重鎮の協力によって確立された藤牧作品の価値に嫌疑を投げかけるのは、一種のタブーであったといっていい。
そもそもが、美術館が収蔵するものにはなんであれ、すでに一定の価値がついている。その価値は、アカデミックな世界全般の「決まりごと」なのである。いち画廊のあるじが公開した検証の成果は、そのルールを理解しない、明らかに好ましくない行為だった。

結果としてだが、大谷の報告は、美術共同体で生成される価値には、要注意の「死角」がついてまわることを暗に語ることになる。共同体の「権威」が深く介在した場合、南を北にするのだって、さほど難しくないのだ。
わたしがかんらん舎に通いだすのは、大谷の検証作業の終盤であった。その仕事の「意義」を疑ったことは一度とてない。ただ、口には出さねど、美術商たるかんらん舎にとっての「意味」をはかりかねることはあった。
つまり、この仕事には、一切の見返りがなかった。やればやるほど、出費はかさむ。どうやっても、ビジネスにはならないのである。彼はなぜそこに、かような精力を注ぎ込めるのか。

少々ながい余談をひとつ、加えておく。
美術館の学芸員がわたしに、大谷の検証結果を「あれは、実証にはなっていない」と言ったことがあった。放射線測定による顔料やインクの成分、X線による後塗り部分と、塗り隠された部分の正確な指摘、といった近代の鑑定で用いられる科学的根拠が提示されていないというのであった。
そのとおりであった。わたしは、あいまいにうなずいた。
大谷が明らかにした物的な事実はといえば、藤牧が生前に発表した作品と、小野が所有していた作品が「別物」であったということである。この「ちがい」を、作者自身の「修正」とみるか、それとも他者による「改竄」とみるか、可能性だけの問題に帰せば、もちろん双方に余地が残る。
同一版木をつかった作品の「ちがい」を、「改竄」だと結論した大谷の検証法や仮定については、ここではとても詳述しきれない。
そもそも、「実証」とは、なにかーー

その学芸員の指摘を受けたとき、わたしが思い浮かべたのは、美術とは関わりない親の口ぐせと、司法をめぐる話だった。
子どものころ、「悪いことだけはするな」と、耳にタコができるほど言われた。子どもは「悪いこと」を漠然と想像できるにすぎず、法など実際には理解していない。
一方で、日常生活において、法で裁かれない「余地」が、いたるところ無数にあることを、経験的に知ってもいる。
そのはずで、社会を毀損したり人を欺いたり傷つけるすべての行為が法律として明文化されているわけではない。そんなことは不可能だ。けれども、多くの人は「余地」でならば、なにを行ってもいいわけではないことを、肌で学んでいく。「余地」には、安易に犯せない一定の「おそれ」が含まれるのだ。おそれは、モラルとなり善意ともなる。
そういった「共通認識」(common sense)があってこそ、法は初めて有用に機能するのである。法だけで、人の善悪をコントルールし、安全で住みやすい社会を維持することなど、とうてい不可能だ。
大谷が検証でつまびらかにしていった、作者の卓抜した技術と創作の精神、幼少からの制作履歴、生い立ち、上京後の足どり、そして一途な宗教観といったものは、藤牧義夫作品を見なおすための必須の土台であり、美の価値と切りはなせない「共通認識」であった。そのうえに小さくとも確実な「事実」を積んだときに、見えてくるものがあるはずなのだ。ゆるがせにできない、なにがしかの「意味」なり「基準」は、ふたつがそろって生じる。
これを「科学的根拠」でもって一蹴するのは、いかにも乱暴だといわざるを得なかった。
なるほど。
精密な機器が測定する数値に、価値の判断を委ねるかぎり、組織人としての失敗はない。しかし1つの事実に近づくために、自分の人格と責任を賭けて、絵や故人に向きあうこともない。
共通認識が薄弱だったり、これをないがしろにする共同体の危険は、ここにある。だれも、そこにある疑義や仮説に向かって、自分自身で思考し物事の本質を見きわめようとしない。と、権威や同調圧力、流行の前に、疑義そのものが圧迫されることになる。事実をふくむはずの「余地」など、かんたんに踏みつけられてしまう。
11年をかけて大谷が挑んだのは、美術共同体のこういう「乱暴」でもあった。だとすれば、藤牧作品をめぐる奇っ怪な謎の検証は、どうあっても損得の器にはおさまろうはずがない。その大きすぎる労力がビジネスの外にあるのは百も承知で、最後までやめるわけにはいかなった理由を、このとき初めて知った気がしたのである。
(まだつづく)

 

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2020年3月 8日 (日)

かんらん舎の仕事 あるいは血風録

この1週間、かんらん舎の仕事について考えておりました。かんらん舎が、存在した意味といってもいいのかもしれません。
その来歴については、かんたんではありますが、自著のなかでほぼ1章をあてて語っております。少し重複しますが、ここではその仕事を、極力、平静に振り返り、観察してみたいと思います。そのため、いつもの「です」「ます」調の文体をあらためるとします。登場者の敬称もつかいません。あしからず。

 

かんらん舎が後世にのこした仕事は、大きく4つに分けることができる。そう、考えていいのではないか。
そのように仕事を区分することは、おりしも、かんらん舎の軌跡を年代順に追うことにもなる。つまり、そのときどきのテーマがあったのであり、かの画廊の得意ジャンルが幅広かったり、たえず多角的にテーマを扱ってきたわけではなかった。

まずはじめに、無名にちかい夭折の作家を掘りおこす「早逝の作家達」シリーズを挙げねばなるまい。
あるじの大谷芳久が、独立して銀座に自分の画廊を持ったのは、1977(昭和52)年のこと。この「早逝の作家達」シリーズは、最初期の看板企画であった。その光りをうけたのは、たとえば、田畑あきら子や藤牧義夫、谷中安規、加藤太郎だった。もし、大谷の企画がなければ、眠ったまま、ひょっとしたら失われてしまったかもしれない作品がいくつもあったはずである。代表的な一作が、藤牧展の準備の最中、まさに転がり出てきた大作「隅田川両岸画巻」であろう。
シリーズは、2年ほどのち、1980年4月の「山口八九子展」が最後になる。
さして資料もなく、作家の関係者に直接あたって数少ない作品を収集し、作家の来歴を明らかにしていくのは、まいど新地に柱を組んで、あたらしい建物をつくりあげるような作業である。場合によっては、四方が闇の状態だ。よしんば展示がかなったとして、作品が売れることで、最後に帳尻をあわせるのがこの商売である。一回ごと、大きなリスクを背負わざるをえない。
ともあれ、ここが大谷の出発点であるのはまちがいなかろう。価値が定まらないものを過剰におそれない好奇心、いちからなにかをつくる瞬発力、情報をあつめる力と精査する力、交渉する力、難しい状況でも経済の底をぬかないという土俵際の駆け引きを、彼は走りながら現場で養っていく。
そうやって大谷は、企画展のたびごと、自分自身でおどろき、おもしろがりつつ、未知の価値を提示してきた。
のちの仕事を望遠すれば、20代のときのこの仕事が幹となり、四方に枝を伸ばしていったのがわかる。

ふたつめの仕事は、このシリーズを打ち切ってからはじめるヨーロッパの現代美術の発信である。「山口八九子展」から半年ほどおいて(1980年11月)、一転、かんらん舎は「ヨーゼフ・ボイス」の展示に打ってでるのである。
この転換ぶりは、周囲をあっと言わせただろう。
当時、ボイスの日本での知名度はゼロにひとしい。2回立て続けにボイスを扱ったが、作品はまるで売れなかった。なぜか、大谷はひるまない。
欧州をめぐり歩き、現代美術の前線をつぶさに観てきた。帰国後、次々と新手の企画展をぶつけた。「トニー・クラッグ」、「ギルバート&ジョージ」ときて、ついにダニエル・ビュランが来日して、作品を組むという大きな話が舞いこむ。
これに応じるために、ひろいギャラリーをもとめて、移転を敢行することになる。高度成長の末期、巷の余裕も追い風になった。ほどなく、そこも手狭になっていまいちど移転する。あらたしい価値を、時代が追いかけてきたのだ。さらにそのさきを、大谷が仕掛ける。作家を招き、ひろいギャラリーで自由に表現してもう。というライブ感も、ひとつの見せどころだった。イミ・クネーベルやヴォルフガング・ライブの刺激的な作品が、大空間に刺激的な方法で据えられた。30坪ものギャラリーを閉めるのは1992(平成4年)だ。じつに12年間、欧州の現代美術を果敢に発信しつづけるのである。

この時期のかんらん舎は、そのものがまるで「びっくり箱」であった。
こうした大がかりな企画を、たった夫婦2人の画廊が転がしていくには、そうとうのエネルギーがいった。他者よりも長けていたのは、マーケティングや宣伝の巧みさではなかったろう。やはりというべきか、彼自身のおもしろがる力がそれであった。おもしろがり方が、並外れていたといったほうが、適当なのかもしれない。

現代美術は、かんらん舎の代名詞となるのである。
(つづく)

 

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2020年2月29日 (土)

続 かんらん舎のドア

週に一度は、かんらん舎のドアを開けて、あるじの机の前に座っていた時期がありました。
で、書きこみと付箋だらけの手持ちの『一寸』を開き、藤牧版画の検証について、あれやこれやを質問するのです。たいてい1時間では足りない。長ければ3時間ちかくも座っていることになります。
で、納得して帰るものの、「そうなのかなぁ」と思い直し、ときには数日後に訪ねていきました。

あるじの手による検証は、きわめて地道、かつ周到でした。わずかな資料を手がかりに、藤牧義夫の生い立ち、人格、思想、技術、時代背景を掘りおこしながら、平行して、生前に発表されている作品の「かたち」と、行方不明後に同人誌仲間の手から広がった現存作を、一枚ずつ丹念に重ね合わせて、子細な齟齬を拾いだしていくのです。
わたしが決まってひっかかるのは、そうした検証結果そのものではなく、「その事実から、なぜそのようにいえるのか」、あるいは「なぜこのようにはいえないのか」、あるいは、その当事者は「なぜそれをする必要があったのか」という、推論の導き方や、当事者たちの動機についてなのでした。
物語をつくる人間というのは、小さな「結果」をパズルのようにはりあわせて、なにがしかの「絵」がつくれないと、どうにも事実が腑に落ちてゆかない。どこかに生じる「空白」を、たとえそうと知っても(実際に文字におこせなくとも)、それでも「空白」のままに置いておけない質なのです。
だから、あるじの手で明らかにされた1つの事実の前で、行きつ戻りつをくり返すことになるわけです。

おなじことを問う。
なんども問う。
と、あるじもなんどもこたえる。
とことんこたえる。
宿題をもらう。
やってくる。
また宿題をもちかえる。
こんなことが2年以上も続きました。
どんなに生徒の理解が愚鈍でも、けっして投げださない。わかるまで説明をやめない。よもや根比べです。それが、「オータニ教室」でした。

この教室には、もう一点おもしろいことがありました。
わたしの来訪とは関係なしに、かんらん舎の企画展は、たんたんと行われます。ドアをくぐった正面の風景は、数カ月ごとに変わってゆく。
白壁の前にぽつねんとたたずむのは、クネーベルだったり、パレルモだったり、あきら子だったり、谷中安規だったり、無名の障害者アートだったり、貝殻だったり、鉱石だったり、化石だったり、戦時化の発狂した書籍の束だったり、古布だったりーー
畢竟、ひとしきり「それ」について語る時間がある。落語のまくらのように、ときどきの展示は「授業」とセットになっているのです。
その大きな振り幅のなかで、かの気の長い授業は行われました。
展示という「まくら」は、わたしの「知りたいこと」には関係なく、無駄なものでしかありませんでした。無駄なものを無駄のまま飲みこむ意味が、ようやくわかりだすのは、だいぶ後になってです。
必要な情報をピンポイントで手にできれば、たしかに効率はいい。しかし、それはたんなる情報でしかなく、アウトプットと同時に消費されてしまう。思考のための土壌の養分として、時間をかけて分解されることがないのです。
道草を喰いながら無駄ごと学ぶこと、余白を持った時間と空間のなかに素材をおいて思考することこそが、オータニ教室の真骨頂だったのです。そこはまぎれもなく、画廊という名の学び場でした。

あれほどぜいたくで、濃密で、幸せな時間が人生のなかであっただろうかと、いまになって思う。渦中にいるときは、つゆとも気づかなかったのだけど。
そのかんらん舎が、きょう静かに幕をおろします。あのドアはもう開かなくなるのです。
1977-2020

 

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2020年2月27日 (木)

かんらん舎のドア

わたし自身の著作(『君は隅田川に消えたのか)』によれば、かんらん舎を初めて訪ねたのは、2009年の「春先」でした。ちょうど11年前。藤牧義夫に関する書籍をつくりたい。藤牧版画の真贋研究について話を聞かせてもらえまいかと用件を切りだすと、あるじのオータニさんは、きっぱりと断ったのでした。全作品の検証作業が、自分の「結論」あるいは「納得」に達していない現状、「話せることがなにもない」というのです。

じつは、かんらん舎のドアを開けたのは、これが最初ではありませんでした。たぶんその1年ほど前です。
企画展の最中でしたが、ほかの見学者はおらず、あるじは奥の机に来客を迎えておりました。小さな小さな展示室からのぞくと、その表情がほぼ正面にとらえられる。雷と達磨を足して、2で割ったような。
苦手だなぁ、こういうおやじはーー
きびすを返すと、すぐにさっきとは逆側からドアを開け、ふり向きもせずに階段を降りました。おもてに出て深く息をするや、だれの紹介もなしに、ひとりでノコノコと来たことの無謀をさとり、後悔しました。
あぶなかった、見知らぬ森に磁石も持たずにはいるところだったーーよ。
帰りの電車のなかで、案外さっぱりと諦めがつきました。このテーマには、そもそも縁がなかったと思えたのです。

そのことを思いおこすと、あれからいまにいたるまで、書籍の仕事が終わってからも、相変わらずその場所に通ったことが不思議でなりません。
よく覚えていることがあります。あのときオータニさんは、取材には応じられないが、検証結果(同人誌『一寸』に随時掲載)に対する疑問にならばこたえるつもりだ。こう言ったのでした。つまり、自分で公開したテキストには、責任をとろうと言うわけです。

わたしは、はげしく動揺しました。うろたえた、のです。
「問う」のであれば、「こたえる」。あんたの事情、こちっちの事情に関わりなく、そこは「やる」と。
「問う」という行為は、その人間の多くをむき出しにしてしまう恐さと表裏です。たとえそれが、自分のフィールドであっても。相手のフィールドであればなおのこと。
なにを観て、なにを問うか。
人格と姿勢が問われるのは、じつは問う側なのです。ごまかしがきかない。
が、こうもいえるのです。ーーここではーー「問う」なにかさえ持っていれば、ほかにはなにもなくてよい。目的はなんであれ、ひとつの表現の前に立とうというとき、知識や経歴や肩書きなどは、一切障壁にならないのです。
かんらん舎とは、そういうところでした。ドアは、だれにもたえず開け放たれていた。ただし、ドアが開いていることに気づくかどうかは、来訪者しだい、なのです。奇妙な画廊です。

 

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2020年2月23日 (日)

南へ



天気はいいし、暖かい。
ひさしぶりに、南へ走るか
掃除をしたあと、ベッキオ(GIOS)の車輪にたっぷり空気を詰め、中央線の三鷹駅を目ざして駆けだしました。まっすぐに南下すれば、40分ほどの距離です。おそらく半年ぶりになるのかなぁ。
感じのいい二軒の古書店(「りんてん舎」と「水中書店」)が駅の北側にある三鷹に、ときおり足を運ぶようになったのは、いまの家に引っ越してからのこと。


あてもなく寄って、ぶらぶらと「なにか」をさがすことができる古書店は、都内のあちらこちらにありますが、自転車圏内であることが、わたしにとって重要な条件です。引っ越し以前はといえば、やはり自転車で35分ぐらいの距離だった高円寺が、好きでした。ついでに、いまよく出かけるもう1カ所は、西武池袋線大泉学園町駅近くにある「ポラン書房」で、こちらは自転車で25分ほど。


路地が入り組み、飲食店やら雑貨屋がひしめく高円寺のようなにぎわいはないのですが、三鷹には三鷹のよさがあります。
落ちついていて、古書店そのものが、街のそんな気分によく合っていること。マニアックすぎず、しかしこだわった棚づくがされていて、そのバランス感覚がいいのです。どちらの店も、店内の居心地がよく、本を気楽に開くことができます。開放的なんですね。
いい出会いがありました。持ち帰ることにしたのは、石原吉郎の遺稿詩集『満月をしも』(思潮社)と、以前から気にかけていた渡辺京二氏の『神風連とその時代』(洋泉社)。ことしは、じっくりと石原吉郎を読みたいと思っていた最中でした。
家にもどると、ぶちがソファで大いびきをかいておりました。散歩に行くかと聞くと、聞こえないふりをして、また目を閉じました。いつもの、タヌキ寝入りです。
コーヒーをいれて、さっそく、買ったばかりの詩集を開きました。日がのびて、夕暮れ時までには、まだすこし余裕があります。 9fb07606d04e4bf082f14e81e0bcd573_1_201_a

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