2026年4月17日 (金)

戦争ごっこ

いともかんたんに、平穏は失われようとしています。
「戦争をしない」。この価値は、なにかの生産活動のためにあるのでない。不可視の平穏を逃さないためのロックが憲法九条です。戦争がはじまって初めて気づく最後の安全装置なのです。

武器輸出解禁も、ミサイル配備も、全土にシェルターをつくるというのも、スパイ防止法も全部、閣議決定でした。
立法府である国会は、うごかない。民主主義はすでに破壊されている。事実上の独裁がはじまっている。じきに、国の幹が倒壊するでしょう。そう、大切なものを失うときは一瞬です。
戦争してやろうじゃねえか。
こう啖呵を切ることができる。高市氏は、それが強い国だと思っている。武器弾薬をたくさん持っている。それが国防であり、抑止力だと思っている。そんなものは切りがない。バベルの塔です。稚拙なのです。

60代の男が、昨今の若者たちの考え方に憤っています。軟弱だと。
「これじゃ戦争もできやしない!」
70代の男が意を得たりとばかりに「おう、戦争なんかできやしない!」と呼応する。で、こう言うのです。
「どっかに、爆弾でも落とされなきゃ目が覚めないんだよ。北朝鮮に打ちこまれればいいんだ。平和ぼけなんだよ!」
陳腐な台詞まわし。いかにもの三文小話みたいだけど、そうでない。最近、ほんとうにわたしが目にした光景です。

石油はじめ、生活を維持する資源をまるで持たない。食料自給率ならば30パーセント(カロリーベース)の小国が、どうやって戦争をすることができるのでしょう。現に、もう物資の不足ははじまっている。戦争を決定した時点で、敗戦は確実です。戦争を煽るものは、為政者でろうといち市民であろうと、みな無能だと断言していい。己の手が届きそうな「経済効果」ぐらいしか実感できず、想像力が決定的に欠落しているから。こういう者たちを「平和ぼけ」というのです。

なん度でも言います。
廃虚で、破壊と殺戮と飢餓の負荷を、ぜんぶ背負わされるのは、社会でもっとも弱い者たちです。
威勢よく「戦争」を口にする者が、ほんとうに自分の町が攻撃目標になったとき、弱者をたすけるだろうか。社会の底辺をささえる命の綱を最後まで握ろうとするだろうか。きっと彼らは、まっさきに逃げだす。
戦争をはじめた為政者もまた、ぜったいにだれも救わない。
だって、そもそも戦争がなにかをわかっていないのだから。壮大な彼女の「戦争ごっこ」の淵に、わたしたちはいま連れていかれようとしてるのです。

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2026年4月 7日 (火)

わた毛

鉢植えのレモンの根元にちいさなタンポポが芽をだし、花を咲かせ、数日まえにわた毛になっていた。
あっ、ぶちが帰ってくるかもしらん
と、思う。わた毛は、あの子なのです。
今朝、気づいたら、もうわた毛はなかった。飛んでいってしまったようです。やっぱり、ぶちは帰ってきませんでした。
やっと春がきたというのに。

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2026年4月 2日 (木)

目がまわる

初稿の見なおし作業2巡目を、どうにか今朝がた終えました。
とたん、ぐるぐる目がまわって椅子にすわっていられなくなった。横になって3時間ほど。なおもおさまらない。結局、夕方まで脳が揺れていた。
この症状がもっともよくでたのは30代のなかごろでしたか。ここまでひどいのは、久しぶりです。
一日家にいられる貴重な時間だったのに、やりたいことがなにもできず。あっという間に、日は暮れる。
明日の朝から、初稿三巡目です。

漫画『ち。』(作・画 魚豊)を、しばらくまえに30歳ほども若いひとからすすめられました。
「絶対におもしろがってもらえると思うんですが」
「そう、読んでみるよ」
知らなかったけど、アニメ化もされてたんだ。
web書店でいち度に全巻を注文すれば済むことだけど、一冊読むごとに書店に買いにゆくことにしました。漫画の売り場は、あまり足を向けないところだから。ぶらぶらするうちに、おもしろそうな数冊を手にとるようになった。『スーパースターを唄って』や『瞬きの音』。出かけてみれば、なにがしかの出会いはある。

さて第7集は、いつも行くターミナル駅の大型書店ではなく、2駅となりの駅まえ書店で求めました。
レジまでゆく途中、きょろきょろしていたら文庫の新刊がふと目にとまる。
ハルキ文庫の『石垣りん詩集』新装版。いま、どうしてこのひとの詩なんだろう。そう思って立ちどまった。
むずかしい言葉をつかわない。ひとを煙に巻くような表現もつかわない。いつも暮らしのにおいがあるというか、かさぶたのように皮膚にはりついている。当然、洒落てはいない。たんたんと生き、すっくとひとりで立っている。そういう印象のひと(このかたの詩については、またなにかの機会に話したい)。茨木のり子さんの「毅然」と、またずいぶんちがう。
きっとたくさん売れる本でないだろう。そもそも詩集ですから。それでも過去の彼女の詩集を再編して、あらたな一冊に仕立てたのには、それなりの思いが制作者にあってのこと。装丁は、指先がふれあう図柄のイラスト。解説が若手の哲学者・永井玲衣さんというのも、惹かれたところ。出版も捨てたもんじゃないね。
これも買って帰りました。

気にはかかっていたけど、トランプ氏のテレビ演説は聞かず。聞きたくもなし。
戦争犯罪人としてハーグの法廷に招かれるがよい。そう、願うのみ。

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2026年3月 8日 (日)

たえがたい

日々起きることが、受け容れがたいのです。たえがたい。
たえがたいできごとは、連鎖する。終わりがない。
ときおり、目にするマスメディアの報道にも耳をうたがう。その危機感のなさ、権力の広報誌ぶりに唖然とするばかりです。よけい、気が滅入る。

アメリカ大統領・トランプと、イスラエルによるイラン攻撃。女子がかよう学校を、先制弾が吹き飛ばした。日本の首相・高市は、さっそくこの攻撃を支持し、イランを非難する声明をだしました。信じがたい——。米軍への協力を断固拒んだスペインとは真逆。
そうしながらも内閣単独で武器輸出解禁に舵を切り、国会承認を拒絶しました。昨日は、一両日中にも熊本の駐屯地に中距離ミサイル(射程1,000キロ)を国内で初めて配備するニュースが駈けめぐった。深刻なリスクを負う熊本市には説明すらない。「反撃能力」とは言葉あそびにすぎず、名指しで戦争の可能性を公言した中国沿岸部の主要都市を射程にしたのは、まぎれもない事実です。このミサイル配備が意味することは、とてつもなく重い。大胆という言葉は、もはやあたらない。無謀なのです。向こう見ずなのです。

ただ高市氏当人には、無謀との認識はないであろう。おそらく、彼女の性分、やり口をよく知った仲間が、彼女をとり囲んでいる。これまでできなかった軍拡やら市民監視網づくりを一気に押しひろげようという、いわばサークルができ、それぞれがやりたいように同意をとりつけている。ならば彼女が、答弁に堪えうる理論を持っていないのも、当然かもしれない。国会を遠ざけ、議論をあからさに回避するわけだ。
その胸のうちには自己実現にまっすぐ向かう喜びしかないはず。からっぽだ。

そうあってほしくない予感どおりに、ことはすすんでいきます。総選挙まえに、時計の針をもどすことはできない。
ボブ・マーリーの「Redemption song」、バッハの「Fugue578」と、そしてブラームスの交響曲3番第3楽章ばかりをくり返し聞いています。
それでも、気持ちの波はたかいまま。よく眠れない日がつづく。昨日、届いた初稿ゲラに、きょうは手がつきそうにありません。

今回の書籍のテーマは15年戦争下の「国民詩」。詩歌を窓にして、ときの社会の一体感、イデオロギーを描きだそうとしました。言いかえるならば、全体主義を、市井の人びとみずからがどんなふうに育て、共有していったか。戦後だれもが語ろうとしなかった「戦争」のすがた。ここでは、いち市民は、単純に戦争の被害者とはなりえない(もちろんそれは、読者の判断ですが)。
この数年、あれこれ資料をひらき、いちから思想地図を興し、ひたすら悩みテクストを書き継いできた。やってもやっても納得できない。なにかが欠けている。考えても考えてもきりがない。ようやくここにたどりつき、ふと目をあげれば、現実がこの世界に駈け寄ってきているのです。というか、時間を逆送しはじめたのだ。
やっぱり、唖然とするよりないのです。

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2026年2月28日 (土)

もの語る

ものを書きはじめ、幸運にも賞をもらったころ、「この一冊で訴えたいことは?」という質問がとても苦手でした。
ひことでいえるぐらいならば、本など書かないからです。物語をつぐむということは、だれかの手に種を落とすこと。その種がどう育つのか、どう育ったらうれしいか。その思いはあるのですが——
あまりに形式化した質問のパターンが嫌だったのかもしれない。もうひとつ、聞き手のなかにある自明の意識がよく見えたからでした。これは「ノンフィクション」である。そういうジャンル分けがすでにある。ならば、それはどんな社会問題を告発しているのか、という問題設定がさきにたつ。

そのころ、「物語を書く」ということにずいぶんこだわっていました。それは、論考でななかったのです。だから、「ノンフィション」全盛だった時代の編集者や作家が、やや大上段にその言葉をつかうことにも、いちいち反感をおぼえたものでした。
年を重ね、書きつづけるうちに、いつしかそんなことを忘れておりました。というか、それを意識することもなく、その境界を行き来していました。
思考する。想像する。願う。
書くという行為には、そのいずれもがともなう。
ひとつのテーマに没入すると、おのずと自分が「もの語り」をはじめている。不可視の「もの」にうごかされている。と、それを書く主体「わたし」はかぎりなく、希薄になっている。
もっといえば、「もの」たちが、忘れてはならないものを、過去からひきずりだしてくる。
だから、ドキュメンタリーかそうでないかという線引きは、わたしにはもはや意味がない。

ちかごろ、「もの語る」という意味が、久しぶりに胸のうちに浮上したのです。
ノーベル賞作家のアイザック・B・シンガーは、ワルシャワのユダヤ人家庭に生まれ育ち、戦前にニューヨークに移住しました。彼はイデシュ語新聞で仕事をしながら、イディシュ語で、自分のワルシャワを描き続けた。イディシュ語は、東欧ユダヤ人たちのあいだに育まれたドイツ語を基礎としながら、スラブ語やヘブライ語の影響を受けた原語。ナチスドイツの侵攻を受けたワルシャワのユダヤ社会とイディシュ語は、わずか6年の支配で痕跡もなく消滅したのです。ユダヤの寓話集『やぎと少年』(岩波書店 1979年)の「まえがき」です。

物語をする人にとって、きのうという日は、いつも身近にあります。それは過ぎ去った年月、何十年という時間にしても同じです。
物語のなかでは、時間は消えない。人間たちも、動物たちも消えない。書く人にとっても、物語のなかの生きものは、いつまでも生きつづける。遠い昔におこったことは、いまもほんとうに存在する。

なんとも、染みいることばです。深くうなずく。

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2026年2月23日 (月)

いま起きていること

猛烈な勢いで首相の高市氏がやっていることってなんでしょう。ここを考えずして、いま起きていることは理解できない。
日本国憲法に拠って立ってきた戦後の日本の社会を、ぶち壊すこと。
では、なぜここまで彼女は憲法を邪魔にするのでしょう。誤解をおそれずにいえば、憎んでいる。いや恐れている。
石破茂元首相が首をひねるのです。彼女の施政方針演説後に、石破氏が報道番組に出演したときのコメントです。
「高市さんが衆院の憲法審査会に出てきて議論したかっていうと私はあまり覚えがない、ずっと席を置いてますけど。あるいは自民党の憲法改正推進本部で彼女が持論を展開したっていう記憶は私はない」
公の議論すべき場で、これまで議論してこなかったというのです。憲法改正をぶちあげた権力者そのひと自身が……。これは、高市というひとの核心を語るものでしょう。

おそらく彼女は、彼女自身のイデオロギーを日本国憲法に否定されていると思っている。思い込んでいる。
だから、憲法を打ち倒す必要がある。つまり、その手にはなにも議論すべきものを持っていない。憲法観(そもそも憲法は国の理想を語るものというぐらいだから無知にちかい)も国家構想も。

近隣国が仰ぎ見る偉大な日本。それは彼女自身。
こんな稚拙な妄執に国がうごかされていいわけがないのです。憲法に手をかけていいわけがないのです。

日本国憲法
第九九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し養護する義務を負う。

彼女は国家運営にたずさわる資格をすでに持っていない。
つまり彼女の最大の敵は、いまや憲法なのです。敵であるから破壊する。この現実を、みながいま理解する必要があります。

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2026年2月11日 (水)

静かな全体主義

風が吹いた——
メディアは盛んにそう言ったが、どうも風が吹いたとは感じなかった。さきの衆議院選挙のことです。
政治学者・宇野重規氏の「静かな全体主義」という言葉が、この状況にぴたりとあてはまるのかもしれません。
争点がなかった。
というか、解散を決行した高市氏はまったく政策を語らなかったのですから。わたしを選ぶかどうか。そう言ったのみ。
だから、急ごしらえ、時間のない選挙戦は、そのきわめて少ない時間を、各党がいたずらに消費しただけでした。有効な政策論議など巻き起こりようもないのです。

そもそも政治に希薄であることが好まれるこの社会風土は、この小選挙区制度には不向きかもしれません。考えの拮抗がないのですから、3割強のマジョリティー層が、実態以上の多数派を形成してしまう。自民党36.7%というわずかな得票率にたいして、3分の2を越える圧倒的議席数が弾きだされたわけです。
かつて組織票の追い風という意味合いだった「浮遊票」という言葉は、もはや現実をとらえていない。浮遊票こそが主たる票の実態だからです。

つまり、これという政治的な意見を持たないひとたちが、なんとなく未来の社会を決定する。武器輸出や派兵、原発、生活保障、内面の監視などだれも知りはしない。一票をどこに投げるかは、ギャンブルや投機にちかい感覚だろうか。
その意味では、高市さんが選挙を終えてから口にした「憲法改正に挑戦」は、正しい。スポーツのようなノリで「挑戦」する。国民の最後のセーフティーネットであるはずの憲法改正に。

危機感を持たないひととそうでないひとたちの対比が、ひたすら際立ったのがこの総選挙だったといえるでしょう。双方が、衝突する場面もないまま、静かなしずかな投票行為が進行して、おおきな津波が起きていた——
だれにも、津波に関与した自覚はない。
ただこれは、かつても経験したはずなのです。15年戦争の入り口・満州事変では、たしかに社会を熱狂が覆った。しかし、それ以前にすでに「静かな全体主義」は起きている。政治を語ること、学ぶことよりも、国家の神聖をなんとなく受け容れ、そうでないものを異端視するという日常が積み重なり、層を成し、排外的な気分が醸成されていたのです。
「静かな全体主義」は音もなく満ちてくるものなのです。そのあとから、熱気がたちあがる。そう、「ファシズム」と呼ぶべきものが目に見えたときは手遅れなのです。
戦争をはじめるとき、すでに戦争できる社会はできている。

高市自民の独裁基盤をつくってしまったこの総選挙ではっきりとわかったことがあったとすれば、それは、躊躇することなく個々が抵抗の意志を鮮明にしなければ、火急のときはたちまち「全体」に飲みこまれてしまうということです。立ち向かう姿勢もみせないまま、ただ押し流される。
もはや「中道」などという立ち位置は存在できない。負けてなお残るものすらない。それを嫌というほど実感した選挙でした。

民主主義の多数決は、独裁の委任ではありません。
ですから、多数に従う必要はない。言うべきを言い、するべきをする。いち市民として。

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2026年2月 1日 (日)

すぐそこのディストピア

高市総理の衆議院解散によって、総選挙がいきなりはじまってしまった。投開票までどのくらいも日がない。
「総理に勝機は?」
と新聞は、のんきに解散を報じてましたっけ。いつから政治は勝負ごとになったのだろうか。自民党が過半数をとったら、国論を2分する政策を押しとおすという。しかし、その政策は公言していない。いつから選挙の多数決がときの為政者に、全権を付託することになったのか。
なんか、かんちがいしてないか。
彼女は、民主主義をまるで理解していない。どころか、民主主義をまったく尊重していない。そして日本国憲法も。
なんのための解散かといえば、ひとこと「独裁のため」と申しあげるよりない。

スパイ防止法——
彼女が、制定をめざす法案の筆頭です。すぐと思い浮かべるのは戦前の治安維持法。大正14年5月に施行されています。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことを忘れてはなりません。権利の付与という目くらまし。いまなら、消費税減税がそれかな。
治安維持法は、国体をまもる題目でいく度も改正され、解釈はひろがり検挙対象は拡大し、罰則も運用も危険なゾーンにはいっていきます。つまり「国をまもる」は、「国民をまもる」ことでない。国家をまもるという漠たる名分は、国民の監視と表裏なのです。

スパイ防止法制定がそもそもアメリカの要望であり、アメリカの条文の引き写しであることはよく知られています。そのアメリカではいま、アメリカ国民の利益を侵食しているとする移民排斥にトランプが武力で乗りだし、ICE(国土保安省が所轄する移民取り締まり機関)がいともかんたんに市民を銃殺している。この法案のゆき着くところはここ。
いまのアメリカに自由はあるでしょうか。ガザ虐殺に抗してパレスチナに連帯した学生たちが大勢逮捕され学校を追放されました。デモ扇動の嫌疑で元ニュースキャスターまで拘束されている。

スパイ防止法の要点は、内閣情報調査室を国家情報局(日本版CIA)に格上げすること。ここが、外国の利益を代弁して活動しているという団体や個人を探しだして、登録義務を課す。登録こそが支配の入り口。個人情報を集め徹底的に監視していく。エージェントとされた者は、公平な裁判はもちろん受けられないだろう。エージェント認定されてしまえば、人権はもはやないと思ったほうがいい。
ようするに、合法的な非国民認定です。
こうやって、言論機関や表現者を弾圧し、あらゆるメディアを掌握したのがロシアのプーチン。ジャーナリスト、映画人や作家が次々と外国のエージェントに認定され、表現・言論の機会を剥奪されました。独立系メディアは活動停止を余儀なくされ代表者は収監、映画はもちろん上映禁止、作家の書籍も発売禁止。マスメディアはよもやプロパガンダとプーチン崇拝の賛辞しか流せない。
高市さんがつくりたいのは、こういう社会です。そこには、言論の自由などない。まったくもって不要。すべてのひとがおなじ価値観でもって国家に尽くすために生きていく。ひとは、ひとである以前に国民だと洗脳されていく。市民は、ごく少数の支配者と支配される側とに完全に二層化されるでしょう。支配される側は、このなかでさらなる階層をつくって少しでも優位に立とうとする。この緊張関係が、独裁のパワーバランスとして機能します。相互監視というかたちで。

非核三原則と武器輸出規制も早々に見直されるでしょうね。
軍産一体の経済機構が社会を牛耳り、政府与党を強力に支援するようになる。もっとも恐ろしいのが、やはり彼女がこだわる非常事態法案。いわゆるナチスの全権委任法です。戦争やテロル、災害時には、政府に全権限を集中して法を停止する。かりに政府みずからが「非常事態」をつくりだしたら、なにがはじまるだろう。
単眼的でおどろくほど稚拙な高市さんの「愛国」をもはや笑っている余裕はありません。あれよあれよという間に、ディストピアは出現するでしょう。いったん、はじまってしまえば簡単には引き返せない。あの敗戦のように、大破綻するまで。

ただいま(2月1日午後9時30分)のテレビニュースは、世論調査を踏まえ高市自民大勝の予想を伝えていました。これもまた一種の扇動(マスメディアにはなにも期待できまい)。涼しい顔でキャスターは「高市さんの風が——」と、ひとごとのように読みあげる。
ちょっと待て! それでいいのか! いまこそ必死の論陣を張るときだろう! 故・久米宏さんが言ったように、政府とことん戦うメディアがあってしかるべきではないか、ここが健全な社会であれば!
とめなければ、たいへんなことが待っているでしょう。それをわたしたちは、次の世代にわたすことになる。こういう時代だからしょうがいじゃない、と。

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2026年1月 6日 (火)

正月はよくはたらいた


昨日の午後、版元にゲラをもどしました。おおきな差し替え、加筆部分の説明、赤ペンの書きこみが入り乱れてしまったところの確認などを終え、以降の作業について話をしました。
池袋の喫茶店をでるころ、陽が傾きかけていた。ひとりでちょいと一杯いくか迷ったのですが、疲れをおぼえたので大型書店をのぞいてから帰りました。
この年末年始は、朝寝ぼうもせずに、いつになくよくうごきました。ふだん、なかなか手のつけられないところを一気にやった——つもり。

・引っ越してからずっと考えてきたのですが、とうとう電動自転車を買いました。なるほど、駅に行く途中の長い急坂を、さもなく上ってしまう。異次元の乗り心地です!

・数年まえ、裾にカビがでてしまった部屋のカーテンをようやく洗濯することができました。ネットをつかっていざやってみれば、そんなに難しい作業ではない。ただ、カビは落ちなかったなぁ。

・農家の知人からいただいた、伸し餅2枚を切り分けました。30分もあれば終わる仕事だけど、どうも踏ん切りがつかない(毎年そう)。固くなるまえにやらないとたいへん。切ってさえおけば、いつの間にか餅はなくなっている。

・部屋の一角に積み上がっていた(けっこうな量です)美術同人誌の『一寸』を号数別に整頓して書棚におさめました(藤牧版画の検証以降の号)。

・左のひじのインナーが激しく破けて、すんなり袖をとおせなくなってしまったダウンジャケットを修理にだしました。やろうと思ってから、もう2年経つ。

・MacPCに保存していた不要な画像を削除し、一部をUSBへ移動しました。PCもクラウドもずいぶん軽くなったはず。スマホに慣れると、ついなんでもかんでも撮って保存してしまうのだな。ゴミのように溜める一方で、整理はずっと先送りであった。

・なん年ぶりかで墨を摺りました。年賀状ていどのサイズに描くことは年いち度はありますが、半切紙をひろげることってまずありませんでした。すっかり忘れてしまった墨と紙の感触にとまどいながら、カボチャを描きなぐってみる。

・西の湯屋の初湯に行きました。2軒あるうち、めったに行かないほう。天井は高くない、湯船もひろくないのですが、こちらのほうがのんびりした雰囲気です。

そうそう、年末の2025読書リストからぬけ落ちてしまった3冊に気づきました。

・『版元番外地〈共和国〉樹立篇』 下平尾直 コトニ社
・歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』 木下龍也・岡野大嗣 ナナロク社
・『味の台湾』焦桐 川浩二訳 みずず書房

いずれもたいへん興味深く読みました。『版元番外地〈共和国〉樹立篇』は、著者で共和国代表の下平尾さんが知人だからいうわけでなく、ほんとうにおもしろかった。一読の価値あり。『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』にかぎらず、最近なぜか現代短歌をよく読む。『味の台湾』は、執筆の参考にしようと記憶の片隅にあるったフレーズをさがしはじめたのだけど、結局全部を読み直してしまう。食と記憶の話しに引きこまれたのだな。
ほかにも、漏れた本があったかもしれない。
明日からは、通常の生活にもどります。

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2026年1月 1日 (木)

馬の年に

暮れから晴天がつづきました。
新春です。
午後3時過ぎ、ようやくゲラにはいった赤字すべての見なおし作業を終えました。
わかりにくかったり、展開が性急だったり、または説明の補強がいるなと考えた末の加筆、差し替えテクストは6カ所に及びました。思ったとおりですが、けっこうたいへんな作業になりました。年末なにかと忙しかったとはいえ、予想以上の時間がかかってしまいました。
とりあえず、編集のかたにメールで報告をしました。ともあれひと息です。

風吹く家のまはり花無し 放哉

馬の年なのですね。
2026年のダイアリーに、台湾でつくった馬の落款を押しました。
ことしはこんなことに挑もう、成しとげようという希望を考えてみたけど、なにも思いつきませんでした。
朝、川沿いをゆっくりはしりました。カワセミは見なかったけど、キセキレイに会いました。明日は銭湯の初湯に行こうかな。

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