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2011年4月28日 (木)

書店にならびますょ

『君は隅田川に消えたのか ーー藤牧義夫と版画の虚実』(講談社)
が、ようやく刊行できるはこびとなりました。
5月12日から、都内の大型書店を皮切りに、棚に並びます。刷り部数はわずか4000部ですので、申し訳ありませんが、全国一斉にとはいかないようですね(ネット販売もご利用くださいませ)。値段は税込み「2415円」です。けっして安価な本ではありませんから、どなたにも、気軽に一冊どうぞとはお声をかけにくいのが心苦しいところです。
ひとことだけお許しいただけるなら、
「10年後にも、きっと読み返せる普遍的な書であるはず」
と申し上げたく思います。手塩にかけた一冊の生命力を、筆者は無垢に信じています。
版元である講談社の販促誌『波』5月号(80円)に、刊行に際して次のような一文を寄せました。全文を掲載します。

隅田川ミステリーよ 終末へ

〈ずいぶんと、やっかいな本だなぁ〉
 われながら、そう思うのです。重たい拙著『君は隅田川に消えたのか ーー藤牧義夫と版画の虚実』のことです。
 三百五十ページ分もの厚み、二千円を超す定価というのが、いまどきの消費第一路線の書籍づくりにそぐわないのは、言うまでもありません。そもそも版元泣かせです。
 で、もっと「やっかい」なのが、新刊について人に尋ねられたときに、作者である私自身が「これは、こんな本です」と、ひとくちに説明できないことなのです。
 まずもって、主人公である藤牧義夫を知っている人は、そういないでしょう。この異能の表現者をどうとらえるかが、書き手にとっては相当に「やっかい」な課題でした。
 わずか二十四年しか生の痕跡がない藤牧義夫は、昭和のはじめ、郷里の群馬県館林から上京して、数年の間にじつに魅力的な版画作品をつくった若者です。が、単純に版画家とくくれない、重量感ある足跡が短い創作史のなかに残されているのです。
 東京都現代美術館が所蔵する彼の比類なき傑作である、白描絵巻《隅田川両岸画巻》三巻がそれです。ほか、試作品を絵巻仕立てにしたひと巻が、館林市第一資料館に残されています。
 描かれたのは、東京での生活圏だった隅田川沿いの風景と、さる宗教団体の庭園です。当人の書きこみによれば、制作は昭和九年の秋から冬にかけて。画作に用いたのは、おそらく墨と細筆一本でしょう。
 その細筆で引いた線のみで、彼は映像のごとく連続性を持ったリアリティーあふれる風景を、つむぎだしていきます。三巻の総延長は、ざっと四十五メートル。前代未聞の大作です。
 不思議なのは、彼がこれだけの絵巻を公開するでもなく、ただしまい込んでいたことなのです。制作の動機は、いまだによくわかっていません。絵巻をつくった翌昭和十年、九月の雨の夜に藤牧は忽然と姿を消します。消息はそれっきりなのです。

 三年ほど前でした。ひとつの美術作品を切り口に作者の人生を浮き彫りにしていくテレビ番組で、藤牧義夫の代表的な版画《赤陽》が紹介されていました。わたしは藤牧義夫の名を知りませんでしたが、意外や《赤陽》には覚えがありました。
〈あぁ、あの版画だーー〉
 鋭い線で彫られた神々しいまでの鮮烈な絵に、すぐに記憶の回路が反応したのです。そのわりには、記憶のありかが判然としない。いつごろどんな状況で、どの美術全集を開いたのかが、一向に思い出せません。ただ「セキヨウ」という一風変わった画題と、それを観たときの、脳天を叩かれたような感触だけがありありと蘇ったのです。
 それにしても、《赤陽》の作者が、得体のしれない絵巻を残し、若くして消息を絶っていたという事実は、少なからず私を動揺させました。
 藤牧のことを一年ほど頭の片隅で寝かした末に、わたしは手紙を書きました。宛先は、藤牧義夫を発掘して遺作展を開いた画廊「かんらん舎」の主・大谷芳久です。なんでもいいから、藤牧義夫という人間を想像する手がかりがほしかったのです。
 ところが、かえってきたのは素っ気ない反応でした。「本当の藤牧版画とはなにか。それがはっきりしないかぎり、作者たる藤牧義夫がいかなる作家だったかなど考えようもない」と言うのです。このときわたしは初めて、どんな経緯あってか、彼がひとりで藤牧版画の真贋検証を十年ちかくも続けてきたことを知るのです。
 とりあえず、大谷が筆をとる同人誌『一寸』を十冊ほどとりよせてみたところ、そこには、にわかにうなずきかねる奇っ怪な報告が詰まっていました。
〈いったいこれは事実なのだろうかーー〉
 こうしてわたしは、かんらん舎のドアをたたくことになったのです。

 暇さえあれば、藤牧が残した少ない文章と作品を眺め、『一寸』四十号分ほどの難解な検証報告をくり返してめくる。考えに詰まると、かんらん舎の大谷の作業机の前に座っては、「なぜ」「なに」と問う。そんなことが、ほぼ二年間つづきました。
 藤牧義夫をわかろうとするには、なにをおいても、残された二冊の手製本を精読する必要がありました。そこにあるのは、在りし日の父の姿です。彼が、父に抱き続けた尋常ならざる敬慕に寄りそってみると、点でしかなかった作品世界と人生がつながりだし、次第に表現者・藤牧義夫の姿が見えてきました。
 ただし、知られざる藤牧義夫像をむすぶだけで、本書を終えることはできません。舞台にたとえるならば、そこはまだ第一幕です。霞がかった話が展開しだすのは、じつは次の幕からになります。
 藤牧の行方不明から四十年以上が過ぎた昭和五十二年、さる美術全集に収録されていた《赤陽》を目にした若い画廊主が、無名のまま埋もれていた藤牧義夫の遺作展を開こうとします。
 若き日の、大谷芳久です。
 大谷はそこで、多くの藤牧版画を所蔵する老版画家に、遺作展への協力をもとめます。当時、重鎮の版画史家として聞こえた小野忠重です。自作本や制作にたずさわった現代版画の美術全集に、藤牧作品を紹介してきたのは、まさにこの人でした。
 じつは小野は、かつて藤牧が所属した版画の研究グループ「新版画集団」のリーダーで、彼とは「画友」だったのです。
 この遺作展を契機に、小野の手のなかで眠っていた作品群は美術館に収められ、小野が遺作展図録に執筆した短い評伝とともに、藤牧義夫の名は美術館関係者、愛好家の間に知れわたってゆきます。
 さてーー。そうやって美術の世界ですっかり定着した藤牧義夫伝説だったのですが、あるとき、もう一枚の《赤陽》の存在が明らかになったことがきっかけで、ひとりの男がこれに不審の目を向けるのです。思想、信仰というまったく新しいカードを手に、疑惑の一枚をめくったのは、美術随想集『気まぐれ美術館』で知られる作家で、「現代画廊」店主だった洲之内徹でしたーー。
 ときをへて登場者をたがえて展開するこの物語は、既成の藤牧義夫像をひっくりかえす評伝であり、小さな画廊の孤独な闘いの足跡でもあり、そして美の価値のもろさ、死角を描いたミステリーだともいえます。
 執拗な真贋検証はやがて、突然の失踪という藤牧義夫最大のエアポケットに繋がってゆきます。

 はからずも今年は、藤牧義夫が生まれてからちょうど百年目にあたります。この夏には郷里の群馬県立館林美術館が、来年一月からは神奈川県立近代美術館が、大々的な回顧展を予定しています。もし両館が、昨年末に刊行された大谷研究の集大成『藤牧義夫 眞僞』(学藝書院)が示した見解を評価するなら、おそらく展示は数少ない真作のみにとどまり、かつて公開した多くの作品についても、なんらかの説明があると思われます。このあたり、本書を手にしたみなさんも、一緒に注目してみてください。
 できれば、両展覧会場に足をはこぶことをおすすめいたします。おそらく、かの白描絵巻(この肉筆はまちがいなく真作です)も公開されるはずです。
 藤牧義夫をめぐる長いながいミステリーは、節目の展覧会を経てようやくエピローグに向かうのかもしれません。そう期待しています。

訂正とお詫び
『本』掲載文では、今夏に遺作展を予定しているのは「館林市第一資料館」となっていますが、上記の通り「群馬県立館林美術館」の間違いでした。関係者のみなさまごめんない。訂正いたします。

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コメント

初めまして。
近いうちに、甘いものを持って、大谷氏を訪ねようと思っています。

版画の方は詳しくないのですが、書店で探してみます。

F氏は反対勢力により、亡きものとなったのでしょうか・・・

大谷氏曰く、ひこーきヲタク より

投稿: 松岡 | 2011年4月29日 (金) 00時11分

当店にお越しいただき、ありがとうございます。いずれ、かんらん舎でお目にかかるかもしれませんね。

投稿: 茶房ちよちよ店主 | 2011年4月29日 (金) 08時03分

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