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2011年4月 8日 (金)

情報という刺激

子どもを公園につれていくにもラジオを手放せなくなったという、あるお母さんの話を知人から聞きました。常に福島第一原発の放射能関連ニュースをキャッチするためだそうです。
その一方で、身近ではこんな会話もあります。
「なんかさ、放射能情報ってもう花粉情報みたいになってきちゃったよね。慣れってすごいね」
どちらも、よくわかります。
政局ばっかりの政治報道とおなじで、一定量以上の情報を得たがための、両極の〝症状〟と見えます。

私事ですが、道具を上手につかいこなせません。小さなころから、図工やら音楽はてんでだめだめでした。不器用はなおらないから、いまも絶えず進化する情報ツールの足に、まったく追いついていけない。引き離されるばかりです。
遅くはじめたブログが精一杯で、とてもツイッターまでは手が及びません。多チャンネル化するテレビからも遠ざかる一方で、この数年は電源を入れない日も増えました。かといって、ITネットで積極的に情報を得るわけでなしーー。
どうしているのかといえば、朝夕にBGM程度にFMラジオ局の周波をとらえ、ざっと新聞の朝刊に目をとおす(夕刊はなし)ぐらいです。面倒くさければ、新聞すら読みません。
わたしの乏しい情報処理能力からしたら、そのあたりが限界みたいです。それでも、この程度のつつましい生活にはとりたてて支障はありません。

まわりを見るかぎり、大震災以降、みな総じていつも以上に積極的に情報を求めるようになったようです。被災地のようす、原発、東電、政府の対応ーー。
ときどき、こんなわたしに「○○がこういってますけど、それってほんとなんですか!」と尋ねる人もいます。
むろん、ほんとんどが初耳です。気がつけば、聞かれたわたしが、いい聞き役になっています。

震災や事故にそなえ、常時、多チャンネルの情報に接するのは決して悪いことではありません。ただし、過ぎればそれも不健康な気がします。過剰に不安や興奮をかきたてられてしまうからです。
ひとの心身はそういう状態に長く耐えきれるようにはできていません。ですから均衡をたもつため、情報をあびながらも知らずとそれに鈍感になっていく。有事には、むしろわそのことのほうが危険だと思うのです。
情報というのは、刺激そのものです。薬物とよく似ています。服用がすぎると、必ず副作用がおきてきます。
多量の情報はときに人を、考えるべきを考えない気楽な批評家、傍観者に変えてしまいます。そういうこと、震災にかぎらずいくらでもありますよね。

ちょっと乱暴な考え方かもしれないけれど、世が混沌としたときこそ、あえて情報の摂取量を絞り込んでみたらどうだろうか。大量にむさぼるそれは感情のガソリンでしかないけれど、わずかずつでもゆっくり噛めば思考の糧にはなるはずです。
「放射能ってさーー」「東電なんてヒデぇ会社はーー」「菅の野郎ーー」「ったく、枝野ってのはーー」
近ごろ、いち個人の激烈な原発評や政府評を聞かされるたび、そんなことを思ったります。
〈ただ腹をたてるだけならば、いっそうテレビを消した方が健康にいいのに〉
それともわたしが、のんきすぎのかしら。

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