« イタリアの吉里吉里国 | トップページ | 掲載誌のおしらせ »

2012年1月17日 (火)

「カメであった」か

今月末までに担当編集者に書籍原稿を手わたす約束をしており、少々せっぱつまっております(今度こそ延期いたしません、ハギワラさん)。少し間があきましたが、「ちよちよ」を放ってあるわけではありませんので、ご心配なく。

いま時期、朝6時にそとにでると、まだ真っ暗ですね。いつものコースを走って折り返すところで今朝、「おやっ」と眼をこすりました。
川沿いの道に大きな柵がおかれている。通行止めです。〈こんなもの見たことないぞ!〉と、そのまますすんでみると、驚いたことに柵はすっと消えた。路上に落ちた街灯の光と、歩道に並んでいた車止めのポスト2本が十字に交錯して、遠目から「柵」に見えていたようなのです。
少々あきれました、自分に。こんな見まちがいをしたことはいままでにはありませんでした。視力はよかったほうですから。年齢相応に視覚の精度が落ちたこと、さらには視覚情報を解析する能力がかなり低下しているのを実感しました。
あまり咄嗟の判断を過信しすぎるな、という体からの信号だと受けとめることにしました。

執筆においては、この1年、2年、体力に比例するように遅筆がひどくなりました(といっても、締め切りにはわりと正確ですが)。一度使った資料を、数時間もかけて探しているなんてことも、ままあります。記憶と整頓の力、双方の機能が混乱してきているのです。
筆がびゅんびゅんと走らなくなったのに、もうひとつ原因があるようです。
年とともに、現象のみでなにかを語れなくなってしまったのです。因果に眼を凝らし、さらにはありえなかった「もし」に、時間をかけて寄り道するようになった。「結果」だけを提示して「これは、こういうことだったのだ」と自分をどうにも納得させられないのです。
明らかに、疑り深くなった。よくも悪くも、一点へのこだわりが増した。しつこいともいいます。もう瞬発力に任せて仕事をする年ではなくなってしまった、ということなんでしょうか。

原稿を書きながら数年前のノートを開いていたら、面白いメモを見つけました。
辻まことが、甥の彫刻家に言ったそうです。
「平気で人前で一生懸命にメモをとるヤツがいるけど、ありゃバカだ。メモしなきゃ覚えられないようなことなら、最初から聞くな」
マスメディア嫌いの彼のことですから、新聞か雑誌の記者さんのことでも念頭にあったのかもしれません。ともあれ、この人は、話をしながら相手の顔も見ないでノートとってるような姿は嫌いだろうな、と思いました。かく言う彼の話術は冴えわたっていて、切り返しも巧妙です。文章に詰め込まれた思考、閃きにも、ウサギの跳躍のようなキレがありました。やや鋭すぎる批評眼を、山という舞台によって和らげることで、彼の画文の世界は輝いた。のんびりした語りに反して視覚は、画文にも登場する野のウサギやキツネのように俊敏に動いていた。けっしてカメではなかった気がします。

文明への批評眼とくれば、わたしはミヒャエル・エンデをすぐに思い浮かべます。彼は、カメという動物をとりわけ好みました。『モモ』にもカメは、時間を司る異世界と現世を自在に行き来できる重要な役回りで登場します。カメはエンデにとって、文明の速度に抗して、人間と社会の普遍的な関係を見据える象徴でした。
近代の金融活動にまで及んだ彼の思索は論理的で硬質なものでしたが、ファンタジーの骨格によって批評精神は巧みに物語にとりこまれた。表現のスタイルはまったく別々ですが、エンデも辻まことも、話に間接的な構造を用いたことで、より自分の思想世界を深化させるのに成功した点は、共通しています。

物語をつくるときのエンデの視点はカメのそれでした。ある現象を低いところから、じっと見あげる。けれども一方で、情報を集めて掘りさげる機敏な分析能力を持って、現代を読み解こうとも試みている。そもそも彼は、「カメであった」のではなく、意識的に「カメになった」のです。より広く、より遠くまで見通せる視覚を獲得するために。

前出の古いノートを読むうちに、れいの辻まことの言葉をせっせとメモしていた自分の姿を、はからずも遠目に見ることになりました。と、それだけで自分が十分滑稽な存在であると、認めないわけにはいきません。おそらくわたしは前者、もともとが「カメであった」方の人間のようです。ウサギはもちろん、「カメになった」人ともちがう、ネイティブのカメとなりしょうか。
ほとほと足の遅い原稿を前に、カメはカメの仕事しかできない、を重く自覚する年始めとなりました。
躍動感にあふれるウサギのようなことをやろうとしても、それは土台無理なんだろう。そのことに気づくのが、おそすぎたのか、それとも意外にはやっかたのかは、自分でも首をかしげるところですがーー。

雑話です。ブチはどこのイヌにもあいさつしません。いや、イヌの自覚が薄いので、それができないようです。けれどもネコを見つけたときだけ、「ようっ!」とばかりにフラフラと寄っていきます。ひょっとして君はネコになりたいのではないかと、疑りたくなることがときどきあります。〈ブチよ、イヌはネコにはなれないのだよ、カメがカメであるように〉 Img_0566


さて仕事にもどるとします。

|

« イタリアの吉里吉里国 | トップページ | 掲載誌のおしらせ »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「カメであった」か:

« イタリアの吉里吉里国 | トップページ | 掲載誌のおしらせ »