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2018年7月29日 (日)

詩集の書評をめぐって

twitterでもお知らせしましたが、詩誌『回生』のコグマさんが、『おぎにり』の書評を書いてくださった(http://jyouhoutanshin.seesaa.net/article/460644672.html)。
詩集の書評が載るスペースは、まず大手メディアの媒体にはありません。マーケットがない、あるいは極小だからですね。文化欄は、ある意味で販促欄でもあります(べつに皮肉じゃないよ)。

そうした事情は、おのずと書評の方法にも反映されるのかもしれない。コグマさんのテキストを読みながら考えた次第。
詩をどう読むか。
批評は、評者と詩の対話です。詩の作者すら介在しなくともよい、じつにすっきりした空間。
その対話は、評者が作者の意図を汲んでいるとか、書評を目にする読者にどう訴え、マーケットを盛りあげるかとは、別の次元で行われます。もちろん、「共感」や「あおり」もなくてよい。

たとえば、コグマさんの引用が「はりがね」であることは、わたしにとって意外でした。
副題にあえて作者名は記しませんでしたが、これはある彫刻にインスピレーションを受けた一篇。彫刻そのものが、意味を語ってはいない。コグマさんの言葉のとおり、まさに「完結していない世界」。吹けば飛ぶほどの小さな作品は、「逆さの世界がどっちが本当は逆さなのか、誰もわからない」という、不穏な存在感を漂わせ、どうじに恐ろしい重さで存在を定着させている。

新聞や雑誌の書評では、広範な読者層に理解されやすい一篇を選ぶのが通例。でも、コグマさんはそうしませんでした。
コグマさん自身の詩の世界と、批評する一篇はたぶん地続きなのです。そうでないと、詩のことばは、批評のなかで元気に息をしてくれないのです。評者とその詩は、どこかで似ている。

批評を読んだわたし自身が、もういちど「はりがね」を読みかえす。と、なんだか別の詩に思える。不思議なことです。

こうでなくちゃいけない
いっさいははりがねの意志

と、思わせる。この書評までもが。

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