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2021年1月

2021年1月29日 (金)

このごろのこと


冷えるなぁと思って、エアコンを入れました。設定は20度。30分ほどでしょうか、ぶちとまるまってうとうとしておりました。
なんとはなしに目が覚めて窓に目をやると、大粒のぼたん雪が、空から降りてきているではないですか。今冬、初めてみる雪です。


あぁ、あのものおとは雪であったか。
しばらく、ぼうぜんと窓を見つめておりました。そう、降る雪は音をたてるのです。その音を聞くと、雪のなかを歩いていたかつての自分を思いだすのです。幼いころのことです。雪は、さんさんと降っては、掃いたばかりの道を容赦なく白地に塗り替えてゆきました。
まったく、雪にはかなわないのです。一切を白い世界に変えてしまうのですから。


3時になったら散歩に行くつもりでしたが、もうぶちにその気はまったくありません。雪も雨もだいきらいですから。毛布から出る気は毛頭なく、呼びかけても聞こえないふりを決めこむばかり。いつものことながら、テコでも動きません。
コーヒーではなく、ミルクを温めてカフェオレをいれました。午前中に買い物に出ていてよかった。きょうは、土鍋でかきごはんを炊くと決めていたのです。おしむらくは、みんなの帰りを待ちながらやる日本酒を見繕っておかなかったことです。

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2021年1月24日 (日)

たんねんな仕事


『一寸』(かつて藤牧義夫版画の検証を掲載した美術同人誌)で、大谷芳久氏が執筆をはじめた「時に抗いし者たち」が、第38回を数えました。
で、今号は「これまでの流れについて(前)」という、展開の整頓に、22ページをつかいきっております。過去、現在と時間を行き来し、西へ東へと飛び回る話の糸を、いったんていねいにたぐっておく。それほど、話の枝は四方八方へとのびているわけです。当然、読者であるわたしも、筆者が引いたこの糸のうえを歩き直すことになるわけです。
そうそう、思いだしました。
共産党幹部・三田村四郎の内妻・九津見房子の元夫、まったく無名の高田集蔵という「野の宗教家」が、連載のきっかけでした。
そこから大杉栄、幸徳秋水、田中正造、山口孤剣、河上肇、荻原守衛、中村彝、辻潤、伊藤野枝、神近市子、宮崎虎之助といった群像(ほんの一部でとても書ききれません)が、次々と連なり立ち現れました。

それにしても、だれにも知られずに生を駆けぬけた表現や思想の徒のなんと多いことか。周知の人物が登場するできごとですら、知られぬ事実、記憶されないプレイヤーのなんと多いことか。そう思うと、わたしたちが「史実」だと思い込んでいるものは、ものごとの「断片」だったり、無辺の歴史地図の小さな「点」なのだとよく理解できます。あるいは、ときの勝者が公認した「大文字の記録」だと気づかされます。
歴史を描くことは、生き残った者たちの特権なんですね。

この連載では、ひっそりと逝ったものをだれかが見守り、懐にあった思いを引き受け、温め、書き残していることに、なんどとなく驚かされてきました。
「よくそんなものにたどりつきましたね」
と、ここ5年ばかり、わたしは氏の顔をみるたびに言ってきた気がします。
「たんねんにさがせば、なんかは見つかるもんだよ」
と、いつだったか氏は言いました。
一見無軌道にみえる話にじつは飛躍などなく、終わりなき「私の小菩薩峠」(副題)は、まちがいなく消え入りそうな足跡を地道にたどってきたわけです。
実店舗を閉めて間もなく1年、かんらん舎の仕事の仕方は揺らいでおりません。

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2021年1月20日 (水)

このごろのこと

なんのまえぶれもなく、「なにか」がやってきそうな気がするのだけど。
それは確実に来そうな、いよいよ現実になりそうなーー
オーウェルの『一九八四年』を久々に再読し、ときおりスガさんのドヤ顔を視界の隅に見つけ、虚構と現実が倒錯しそうになり、ふっとわれに返るのです。
たぶん、もう引き返すのはむりだろうなぁ。

サン=テグジュペリの『人間の大地』をほぼ並行状態でめくっているのは、その反動であるかもしれません。
奇跡的な「偶然」というのは、全神経を投入した観察や、濃密な経験がもたらしてくれる「必然」の、べつの言いまわしなんだろうと、ふと思う。なんども窮地から生還する定期航路黎明期の飛行機乗りのように、機体を持ち直すことも、あるいはまだ可能なのだろうか。
問題は、この社会がかの敗戦以降、どんな政治「経験」を積み上げてきたのかということーー
と、じきに燃料の切れる機体が、深い霧のなかで方向を見失う絶望的な場面が、どうしても浮かんできてしまう。
ひとつの象徴が、スガさんの演説やら会見での態度なのでしょう。

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2021年1月16日 (土)

『ちいさな王子』


いずれ読み直そうと思っていた一冊が、散髪帰りに立ち寄った古書店にありました。
『ちいさな王子』
日本人には「星の王子さま」で定着した、言わずと知れたサン=テグジュペリの代表的作品。じつは昨年、岩波書店(2005年に著作権切れ)の愛蔵版を手に入れ、ずいぶん久しぶりに再読してみて、大きくつまずいてしまったのです。すんなりと読み通せない、のです。子どものとき、このような違和感を抱いた記憶は、たぶんなかったと思うんですが……


著作権切れを待って、新潮社はじめいくつかの版元が満を持して新訳を手がけているのですが、わたしがこの光文社版をつとめて気にとめていたのは、訳者野崎歓氏が、これだけ普及した日本語タイトルの「定番」を踏襲しなかったこと(たぶん、ほかの新訳はみな、「星の王子さま」だったと思うよ)。いまさら原典を尊重したタイトルをぶつけるのは、版元の理解も含め、ずいぶん勇気のいる判断だったと想像します。
「レオン・ヴェルトに」という献辞は、光文社版ではこんなふうに訳されていました。

この本をおとなに捧げてしまったことを、こどもたちにあやまらなければならない。それには重大なわけがある。つまり、そのおとなはぼくにとってこの世でいちばんの親友なんだ。(中略)これだけの理由でまだだめなら、そのおとなも昔はこどもだったのだから、この本をそのこどもに捧げることにしよう。どんなおとなだって、最初はこどもだった(それを覚えているおとなは、ほとんどいないけれど)。

しっくりきました。
レジに行く前に、ページを開いて一ヶ所だけたしかめました。「ぼく」が、砂漠で出会った「王子」を、なんと呼んでいるか、を。岩波版では「ぼっちゃん」でしたが、光文社版は「坊や」でした。
うなずきました。

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2021年1月11日 (月)

このごろのこと


久しぶりに墨を摺ったら、なんだか安心してしまいました。忘れものをとりに行ったかのような義務まじりの妙な安堵感。
絵の出来なんかはおいて、墨はときどき摺らないといけない。だれと交わしたわけでもない、そんな「約束」が、なぜだかわたしの手のなかにあるらしい。
和紙に墨を流す必然など、わたしにはまったくもってないのだけど。


太陽のでない日、朝から部屋にこもっていると、こう思わずにおけません。
春はずいぶん遠くにあるなぁ、と。
冬至をすぎて、日没の時間は徐々に延びているはず。その実感がどうも感じられないのです。
左の薬指の根元が、霜焼けになりました。


息子たちは本日、ふたりとも成人式にはでかけなかったようです。尋ねてはいませんが、それぞれの理由があるのでしょう。
父としては、行ったほうがいいぞとか、行く必要はないよなどと一切、話しませんでした。
1年ほど前でしたか、どちらかとこんな会話をした記憶があります。
「成人式には行ったの?」
「いいや、行かなかった」
「そうだと思った。あなたが行くわけないよね」
「おばあちゃんは、なにか言った?」
「まったく」
「そうだと思った」

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2021年1月10日 (日)

このごろのころ


やることが多く、きょうはここまでと目標を決めても、なにかをやり残してしまう。あれもこれもはかどらない。気忙しいには違いないのに、一方で、日々ぼんやりとしている自分もおります。
トランプ支持者による米議事堂乱入事件も、足もとの緊急事態宣言も、まるで現実感を伴わない。曇りガラスの向こうで、大勢の人影が動いているようにしか見えてこないのです。なぜなんだか。


理由はわからないのですが、体が急に動かなくなりました。年越し前には、6時にはふとんから起きだして走りに出ていたのに、緊張の糸が切れたようになってしまいました。
今朝も、7時半起きがやっと。それでも、ぶちは起きません……。ほうっておけば、9時前まで大いびきをかく始末。
ともあれ、この体の重さと、視界のどんより具合は、どこかでつながっている気がします。


パスポートの有効期限が切れておりました。海外に出なくなってずいぶん月日が立ちますので、気にもかけませんでした。
古いパスポートを開いてみたら、最後に出国したのは2010年1月でした。もう10年以上前のこと。ヒューストン経由でコロンビアのボゴタに入った入国記録がありました。
あぁ10年なんて、過ぎてみれば一瞬だと、思った次第。
あのころから、なにもかも変わった気もするし、なにも変わっていない気もします。たしかなのは、加速度的に年をとったこと。


最寄りのパスポートセンターに出かける前に、証明写真機がどこにあるのかを探していました。
どうしてそんなことにお金をかけるのと、息子がけげんな顔をしました。で、自分のスマホに入っているコンビニプリント用のアプリで写真を撮ってくれました。
背景を考え、壁を後ろに立とうとしたら、また笑われました。背景はアプリが勝手に白地処理するそうです。で、確定したショットをコンビニに送信する際に、1ショットにつき150円が課金される仕組みらしい。手のひらがつきだされ、その場で徴収されました。
駅前のコンビニに寄って、コピー機に印刷番号を入力すると、あっという間に4枚1セットの写真が出力されました。カラー印刷代、たった40円なり。
おっさんは、口あんぐりです。世のなかは、そんなふうに変わっているのですーー。


パスポートセンターは、山手線のターミナル駅から10数分歩きます。更新ではなく、失効している場合は申請に戸籍謄本が必要になると言われ、その日一日分の気力をすべてなくしました。

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2021年1月 1日 (金)

正月飾りの花にかえて


年があらたまりました。
昨年の大掃除は、ずいぶんやり残しがあったなと思うものの、今日はきょうのやることもあり、あっという間に日暮れを迎えることになりました。
これじゃいかんなぁ
夜遅くに、ようやく積み上がっている古い本を手にとりました。どれも戦前の、詩と童謡に関するもので、次の書籍の資料になります。
書籍づくりに取り組む年になりそうです。


書棚にある『悲しき玩具 直筆ノート』(盛岡啄木会)をぬきとりました。
啄木の直筆ノートをそのまま書籍化したもの。
ページのはじまりに、デザイン文字のような「一握の砂以降/(四十三年十一月末より)」という扉がついています。彼はていねいにこの扉をつけ、なにか期するものを自分で確認したんでしょう。
この書の優れているところは、後半の余ったページ(たぶん20ページ以上)がそのままーー白紙状態でーーで、ついているところ。
余ったわけではないのです。生きる力が尽き、書き込みがかなわなかったのです。そこにも文字にならない言葉があるはずなのです。
『悲しき玩具』の原本からは、啄木の声が聞こえてきます。
なにかの節目に、わたしはこの本をめくりたくなる。どうしてかは、いまだにわかりません。
正月飾りの花にかえて、啄木の歌をひとつ添えます。

腹の底より欠伸もよほし
ながながと欠伸してみぬ、
今年の元日。

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