親鸞殿、念仏で救われますか?
ずいぶん暖かい。
暖かすぎるぐらいです。
やっかいなできごとがあり、10日あまり心身が摩耗し続けております。エンドレスではないとわかっていても、渦中にいるときは時間の見通しを考えることができない。空間と時間の感覚をなくしていくと、人はありもしない小さな檻に自ら閉じこめられてしまう。
こういうときは、日増しに「楽になりたい」と心中でつぶやくようになります。
ふと、思う。
自分は、いまの状況から解放されることをのぞんでいるのか、それともこのまま生きることから解放されたいのか。ある一線を超えたら、一切が面倒くさくなり、一切がどうでもよくなってくるのでしょう、きっと。
法然は、ひたすら念仏を唱えることを説きました。それによって仏になれると。その教えを継承した親鸞は
「それってほんとう?」
というあざとい問いに、生涯をかけて挑みました。それもわりと暢気な回路でもって。親鸞の魅力は、親鸞自身が迷いを持ち、不信の心を抱え続けたこと。「歎異抄」のなかで、弟子唯円がぼやきますね。
「師匠だから正直にいいますがね、じつは念仏を唱えてもね、ちっとも心が盛り上がらんのです……」
親鸞はこたえます。
「いやぁ、じつはわしもおんなじだ。阿弥陀仏の教えを受けて喜びを感じないのは、煩悩の仕業よな。だからこそ、煩悩多きこんな凡人が、みな救済の対象になるわけよ。阿弥陀仏の悲願ってのは、まさにそれさっ」
なんだか、都合がよい。わかるような、わからんような。
ともあれ、最近のわたしは、その都合のよさがわりと好ましく思えるようになっていました。実際に救済の手がのびてくるのかどうかは、そんなに重要なことじゃないのです。「救われる」と、とりあえず思っておくと、いくぶんかは楽になる。
そう、いくぶんか楽に世を過ぎていくことが、ブッダが考えた執着を捨てること、悟ることに、少しだけ、ほんの少しだけ近づくことになる。
そんなもんでいいような気がします。信仰だもの。