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2021年3月

2021年3月30日 (火)

親鸞殿、念仏で救われますか?

ずいぶん暖かい。
暖かすぎるぐらいです。

やっかいなできごとがあり、10日あまり心身が摩耗し続けております。エンドレスではないとわかっていても、渦中にいるときは時間の見通しを考えることができない。空間と時間の感覚をなくしていくと、人はありもしない小さな檻に自ら閉じこめられてしまう。
こういうときは、日増しに「楽になりたい」と心中でつぶやくようになります。
ふと、思う。
自分は、いまの状況から解放されることをのぞんでいるのか、それともこのまま生きることから解放されたいのか。ある一線を超えたら、一切が面倒くさくなり、一切がどうでもよくなってくるのでしょう、きっと。

法然は、ひたすら念仏を唱えることを説きました。それによって仏になれると。その教えを継承した親鸞は
「それってほんとう?」
というあざとい問いに、生涯をかけて挑みました。それもわりと暢気な回路でもって。親鸞の魅力は、親鸞自身が迷いを持ち、不信の心を抱え続けたこと。「歎異抄」のなかで、弟子唯円がぼやきますね。
「師匠だから正直にいいますがね、じつは念仏を唱えてもね、ちっとも心が盛り上がらんのです……」
親鸞はこたえます。
「いやぁ、じつはわしもおんなじだ。阿弥陀仏の教えを受けて喜びを感じないのは、煩悩の仕業よな。だからこそ、煩悩多きこんな凡人が、みな救済の対象になるわけよ。阿弥陀仏の悲願ってのは、まさにそれさっ」
なんだか、都合がよい。わかるような、わからんような。
ともあれ、最近のわたしは、その都合のよさがわりと好ましく思えるようになっていました。実際に救済の手がのびてくるのかどうかは、そんなに重要なことじゃないのです。「救われる」と、とりあえず思っておくと、いくぶんかは楽になる。
そう、いくぶんか楽に世を過ぎていくことが、ブッダが考えた執着を捨てること、悟ることに、少しだけ、ほんの少しだけ近づくことになる。
そんなもんでいいような気がします。信仰だもの。

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2021年3月21日 (日)

春の嵐の日に

風雨が、窓ガラスをたたいています。
ついさっきは南東向きの窓が鳴っておりましたが、今度は南西の窓が鳴っている。
横殴りの風雨の向こうに、いつもと変わりなく過ぎてゆく電車がありました。西から東、東から西へ。
春の嵐。
知らぬうちに体が冷えていたようなので、迷ったすえにエアコンをいれました。
上空の雲が、すごい勢いでうごいています。雲は切れそうで、切れない。

 

あてもないのに、いつも便りを待っていることに気づきました。便りがあるかも知れないという期待が、どこかにある。肩を落とすような暗い気分のときでも、のんびりと過ごしているときでも、「いま、表のポストに手紙がはいっていたらいいな」と、ぼんやり思ったりする。不思議と、手紙の差し出し人がだれなのかとは、考えたりしないのです。
だれでもいいってことなんでしょうね。
待てど待てど便りはこない。
だから、言葉をつくろってなにかを書く。詩であれ、こういう散文であれ、仕事として依頼された書籍原稿でも、突き詰めればそれは、きっとだれかへの手紙であるわけです。
いずれどこかから返信がはこばれてきて、表のポスト放り込まれます。コトリという小さな音をたてて、手紙が落ちる。
なにかを書こうという昨今の自分の意欲は、それっぽっちのか細い想像にささえられて、かろうじて立っている気がします。これって、もういないあの人がよく言ってたことだったな。
春の嵐の日に。

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2021年3月15日 (月)

この10年

もしも、「3.11」後の社会を生きる生者に、それがかなわなかった者がなにかを託したとしたならば、なんだろうか。
この10年、そんなことを考え続けて来ました。なにかの課題や出来事の前では、決まって自分自身にそのような問いかけ方をしてみるわけです。
実際に、死者が託したものなどあったのか、なかったのか、それは問題でないのです。大切なのは、そうだと信じて、いまを思索し、未来を選ぶことなのです。

では3.11後、この国はどこに向かったでしょうか。
「日本を取り戻す。」とうたった自民党の安倍総裁が、圧倒的な選挙結果で首相に返り咲きました。
この内閣が推し進めたことを、思いつくままあげてみましょうか。
異次元金融緩和のアベノミクス、国土強靭化計画、安全保障関連法案(集団的自衛権の容認)、特定秘密保護法、小中学校での道徳教育開始、教育勅語を教材に用いることの肯定、東京オリンピックの誘致ーー
まさしく、いつかの栄光を「取り戻す」ための10年だったといっていいでしょう。

この社会が投げ込まれた新自由主義は、利潤追求を至上として、人々を競走に駆りたててきました。成長のために市場を、ひたすら拡張しなければならない。当然ながら、地球環境の限界には無頓着でした。富者が搾取を効率化させる結果として、社会は必然的に多くの弱者を生みだすことになりました。
かりに、3.11を国家存亡の危機、差し迫った警鐘だととらえたならば、こうした流れに抗うべく新しい価値を見いだそうとしたはずなのです。けれども、そうはならなかったのです。
未曾有の国難を、「復古」の道具にしてしまった。誤解を怖れずにいえば、被災地を、都合よく消費したのです。向かうべきところを、この社会は決定的にまちがえました。いまだ修正の兆しすら見えない。それが、「この10年」ではなかったかと思うのです。

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2021年3月11日 (木)

3.11の夜に


また「3.11」が、めぐってきました。
あれからとうとう、10年の歳月が流れたことになります。
未曾有の災害に直面したこの国にとって、3.11からの「復興」とはなんであったか。わたしにとっては、これを言葉にしようとして、できなかった10年でした。

しばしば、不思議な思いにかられることがあります。パンデミックの混乱がつづくいま、おりしも震災から10年のこのとき、東京でオリンピックを強行しようというこの巡り合わせに、なにかの意味があるのかないのかーー。と、思いださずにおけないのが、オリンピック誘致のための安倍首相(当時)のプレゼンの一節です。
「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」
フクシマの惨状は、開催地東京に影響を及ぼさない……
とは、いったいどんな理屈なのでしょうか。2020年の開催権利をもぎとったときの、国あげてのはしゃぎよう。このときわたしは、心底この社会が恐ろしくなったのでした。なにかを決定的にまちがえ(まちがえたフリをきめこみ)、現実から逃避する道を選んでなお、「復興」で盛り上がろうとする心根は、どこからくるのだろうか。
ともあれ、あの招致活動によって、本来無関係であった大震災と原発事故とオリンピック、そして開催を待っていたかのように現れたパンデミックは、かたくからまっていくのです。やはりそれは、奇妙だとしか言いようがないのです。奇っ怪ともいえます。

たしかなことは、この国の「復興」が、「オリンピック」という一つの象徴に転化されたということです。オリンピックの開催が、なぜか復興の手段となり、いつの間にか目的そのものとなってしまった。そして昨年来、開催動機には「コロナウィルスとの戦いに人類が勝利した証」まで加わったのでした。
さて、あの津波が沿岸の街を飲みこむ場面を思い起こし、いま一度問うてみます。
はたして、「復興」とはなんだろうか。この問いの前で、立ちどまったままことしも動けずにいます。

星があろうとなかろうと、この日ばかりは夜空を見上げずにおけません。

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2021年3月 4日 (木)

『天国にちがいない』

〈シネマ手帳〉No54

夜のニューヨークに空路降り立った映画監督の男が拾ったタクシー。黒人のドライバーが軽口で尋ねます。
「どこから来たんだい?」
「ナザレ」
「そっ、ナザレか。ナザレって国かい?」
「……パレスチナ人さ」
運転手は、思わず急ブレーキをかけて、満面の笑みで後部席を振りかえります。
「えっ! 人生でパレスチナ人に会ったのは初めてさ。記念にこの運賃はただでいいよ」
「………」
主人公の台詞らしい台詞といえば、この場面のみです。
いうまでもなく、パレスチナ自治区のナザレはイスラエルの占領下にあり、パレスチナという国は存在しません。国を訊かれて、国名を口にせず、珍獣でも見るようなドライバーの反応に悲しみを覚えるでもなくーー。ただ、飄然と自分が遭遇した空間にたたずむ。これが、映画監督スレイマンのスタイルなのです。
映画監督役を演じるのは、エリア・スレイマン監督自身です。本作の、ナザレ生まれのパレスチナ系イスラエル人という設定も、当人そのもの。20210303-00851

 

ナザレで暮らす監督が、映画の企画を売り込むためにパリ、ニューヨークに出かけます。道中のできごとの断片が、数珠のようにつながっていく。気づかされるのは、ナザレでの日常と異国での非日常が、まったく同質にとらえらていること。彼の目を透過する世界は、ひとしくナンセンスなのです。
彼は、パレスチナを圧迫し続ける巨大な暴力や多くの血を流してきた過酷な抵抗を、そのままスクリーンに投影しようとはしません。声も発せず、冷めた目で半ば驚き、半ばとまどい、そしていぶかしむだけ。その方法をどこまでも貫くのです。

物語のはじめと終わりに、レモンの木が生いしげるナザレの家の庭がでてきます。早朝、隣人が勝手にはいりこんで鈴なりの実をもいで、悪びれもしません。ベランダからのぞく監督に悠然と言うのです。
「泥棒だと思うな、ノックしたのにだれも出てこなかったのさ」と。
この「泥棒」は、あるときには勝手に木に水をやって、枝の剪定までもやってしまう。
近代資本主義と国家がこの地を蹂躙する以前の土地の記憶すら、おかしみに包まれているのです。

中折れのストローハットと紺のジャケットに、たすがけの薄い革カバンという格好は、ナザレでも旅先でもいっしょ(このセンス、好きです。つかう音楽もいいのです)。
「もし過去の私の映画作品が、パレスチナを世界の縮図として描くことを目指していたなら、
『天国にちがいない』は、世界をパレスチナの縮図として提示しようとしている」(エリア・スレイマン)
原題は、「It Must Be Heaven」。

(監督:エリア・スレイマン/撮影:ユルゲン・ユルゲス/出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、クリコ・コプティ、アリ・スリマン他/2019年/フランス、カタール、ドイツ、カナダ、トルコ、パレスチナ/英語、フランス語、スペイン語、アラビア語/102分 ヒューマントラストシネマ有楽町他)

 

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