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2021年4月

2021年4月27日 (火)

このごろのこと


月がきれいな夜は、なにもしたくない。とはいえ、ちかごろはいつだってなにもしたくないのです。


月がこっちをみている。こっちも月をみている。


北海道の塩狩パークで保護されたという子猫たちの情報が、ツィッターのタイムラインで流れてきました。トラとキジトラ、合わせて6匹。連絡先が町役場の住民課というのが、なんだかほほ笑ましい。
捨てられていたのは、塩狩駅から車で3分ほどのところだといいます。1年半ほど前、わけあって旭川にでかけたとき、その辺りを通ったはずです。それだけのことですが、その子猫たちのことが、どうも他人事に思えない。情報が拡散して引き取り手が見つかればいいなと思いつつ、リツイートしました。


10年ほど前、前の家の自転車置き場に子猫が一匹捨てられていました。子猫は必死でドアの前までついてきましたが、わたしは猫を家に入れませんでした。猫はドアの外でずっと鳴いていました。必死だったのです。
夜中、知人に連絡して、引き取ってもらえることになりました。でも、自転車置き場の箱に入れてやった子猫の姿は、翌朝見えなくなっていました。どうしてあの晩、家にいれてやらなかったのか、いまだに悔やまれてしかたないのです。

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2021年4月24日 (土)

たとえばのはなし

たとえばのはなし。
絶頂にあった独裁者の「王」がある日突然、側近の告発により足もとをすくわれそうになったとします。
王は、あらゆる手段を駆使して、「裏切り者」を追いつめました。そこには威厳も謙虚さも、まして理性もありはしない。ただ、憎しみと異常なまでの名声への執着(保身)があるだけです。
その醜悪さは、特殊な状況下の仮の姿なのでしょうか。じつはそれこそが、その人そのものの偽らざる姿です。
危機的状況は、人の素性を明らかにしてしまいます。
服を着る、髪をととのえる、真摯に反省する、だれかの話に耳を傾けるといった余裕がまったくなくなり、そうと気づかずに素をさらすことになるからです。
裏返せば、その人らしさ、その人の真価は、危機的状況においてこそあらわになるのです。

たとえばのはなし。
王が、裏切り者を完膚無きまでにたたきのめすことに成功したとします。王国の転覆を目論んだとされる裏切り者の骸は、さらしものにしました。地位も名声も守りきった。でもたった一つだけ守りきれなかったものがあったとしましょう。
はて、なんでしょうか。
わたしならば、「権力の抑止力」とこたえます。権力者の意にそぐわないことであっても、申し述べることができる「思想の自由」がそれです。社会は多様性を喪失し、思考停止状態となる。
抑止力を持たない権力者は、ひたすら周囲を圧迫することになります。圧迫し続けないと、不安だから。けど、圧迫し続けるほどに、不安は肥大化する。

たとえばのはなし。
王が「裏切り者」の告発者を許したとします。対話にのぞみ、やがて自らを省みて城下を去ることを決めます。告発者に礼を述べ、独裁下での言動を恥じる。
王は一切をなくします。でもたった一つだけ守ったものがあったとしましょう。
はて、それはなんでしょうか。

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2021年4月17日 (土)

このごろのこと


雨が激しくなるまえに家にたどりつきました。
濡れた服を干しているうちに、窓を雨がたたきだす。風が出てきたようです。
たすかったな
と思う。


これというわけもなく、ウサギの絵を描いてみる。描いてみたら、ふいに思いだした。
そうだ、ロバを描かなくちゃ。
そういえばすぐに描けるほど、ロバを見たことがありません。ひとしきりネットのなかを探しました。ロバらしいロバを見てまわり、かれこれ30分。


競走は、社会を成長させ、よりよくする
という考え方は、資本主義の基本原則です。すくなくとも、そのように教えられてきました。
競走に勝つためには、努力が必要です。時間と金と労力をつぎ込む。だからこそ、成功者は報われて当然、いや報われるべきだという理屈には、たいていの人がうなずきます。わたしも、そのひとり。
でも、なにかがちがう
と思う。では、なにがどうちがうのだろうか。
少なくとも雨の日、ひとりでいるときは考えたいと思うのです。このことは、いずれまた。

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2021年4月16日 (金)

命と時間

9年前のこの日、友人が逝きました。息をひきとったのは、朝方でした。前の日の夕に病室にはいって、そのときまで一緒にいられたことは、いま思えば神様がくれた時間でした。
空はよく晴れておりました。

看護士さんがわたしを、「息子さんですか! 似てますね」と行ったとき、彼はうれしそうでした。
そのときに彼は言いました。「あと5年とは言わない。3年だけ生きたいな」と。
わたしは心底から祈りました。自分の寿命3年を、どうか裂いてくださいと。

その3年は、もう3回過ぎてしまいました。あんなに切望した3年は、じつに一瞬でした。あっけない、あまりにあっけないのです。
生物に与えられた時間には、どんな意味があるでしょうか。
かれが生きられなかった3年に、どんな意味があるのでしょうか。
彼が切望した3年の3倍の時間を生きてしまったわたしは、なにゆえ生かされているのでしょうか。
命と時間について、一日中考えておりました。
こたえはありません。きっと彼はわらうでしょう。
「こたえがないから、おもしろいんじゃないか」
そういうひとでした。

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2021年4月15日 (木)

帰り道のすがた

しばらくおとなしくしていた腰痛がはじまり、寝起きがままならなくなってからとうとう観念し、近くの接骨院のドアをたたきました。
朝のランニングを2週間ほど休んだのち再開したものの、さもないことで今度は左ふくら脛が肉離れを起こしました。
いずれも学生時代の古傷で、つきあいは長いのです。どんなとき、どんなふうにやってくるのか分かり切っているのに、コントロールしきれないときがあります。
無理できると思ってしまうのです。

感情においても思いあたることが、ちかごろままあります。自分の性癖をわかっていながら抑制できなくなっている。涙も怒りも上手に抑えられないのです。いっぱしの人生経験を積んだおとなの顔をしながら、中身は加速度的に退行しているのですから、はた目にはさぞ見苦しいかもしれません。その自覚すら、ときどき飛んでしまいます。

歳をとるとだれもが子どもにかえる、といいますが、むずかしいのはどんなふうに帰りの道すがらを歩くか、です。その姿って、人生で培った人格そのものなんでしょう。戦上手でないと、撤退戦のしんがりがつとまらないように、意気盛んな季節を降りていくときは、人としての力量を隠しきれない。
まれに、品のあるお年寄りに出会うと、ついその方の若いころを想像したくなります。興味がわくのですね。
で、自分はそういう年寄りになれるかなと考えると、かなりあやしい。

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2021年4月11日 (日)

このごろのこと


「電線絵画」とは、なんとも妙な企画展です。ともかく電線のある風景画を集めたわけで、今般大人気の山口晃画伯と、もはや教科書の美術村住人である小林清親、岸田劉生、川瀬巴水、五姓田義松、高橋由一、佐伯祐三といった面々、はたまた月岡芳年、河鍋暁斎までが並ぶ。すごいとりあわせです。
たまたまもらったチケットがあったので、西武池袋線の中村橋駅近くの練馬区立美術館に出かけてみたわけですが、その「なんでもアリ感」に思いがけず楽しくなりました。

と、藤牧義夫の「隅田川両岸画巻」の第二巻までがここにやってきているのには、たまげました。
この絵巻の醍醐味は、気が遠くなるような連続性なんですが、さすがにそこまで広げるスペースはないようで、少々残念。彼の企画展ではないので、しかたないでしょう。
印象深かったのは、松本竣介の「鉄橋近く」でした。薄い紙に木炭と墨で描かれた一枚。墨にたっぷりと水を含ませ遊ばせている感じと、絵のテーマのアンバランスさが、奇妙につり合っているのです(矛盾した言いかたですが)。
チケットをもらうというのも、ひとつの出会いであると悟りました。無駄にしなくてよかったなぁと思う次第です。


2駅となりの駅近く、ビルの1階にたいへん活気ある魚屋があります。
週末には寿司をにぎってパック詰めしてくれます。10コ入って500円也。ネタがよくっておいしいのは、いうまでもありません。
以前は、この2月に閉店した古書店に出かけた帰りに立ち寄りました。古書店がなくなってしまったらもう来ないだろうと思っていましたが、さにあらず。
いまも、気分がいいと足がむいてしまいます。なにげなくのぞいていただけだった魚屋の吸引力には、少々おどろかされております。
運がよければ、煮アナゴの切れ端のパック詰めがあります。それなりの量があって300円也。とても酒がすすむのです。

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2021年4月 5日 (月)

このごろのこと


ひとつのできごとをめぐって、この10日ほどの間に、なんどか耳にした熱い言葉があります。
「こんな世のなか、まちがっている!」
まったくおなじことを、ちがう場面で数人が吐きだしました。
そうなのかなぁと思う。まちがっちゃいないよと、言いたいのではありません。渦中の一方に強く同情し、一方に激しく憤慨しているのは、もちろん分かるのです。でも、その激しさのわりには、安直な、あるいは軽薄な気がしないではない。
だって、そう言ってみたところで、毒にも薬にもなりはしないのです。そういうの、自分は言わないようにしようと、ぼんやり壁を見ていたら、声はこっちに向かってきました。
「そうだろっ!」
「あっ、はい」


ひとりで暮らす老母が、米を送ってきてくれました。
米のなかから封筒が出てきました。封筒は少し重く、開けるとまとまった額の札束でした。たまげますわね。
どうしたことかと、慌てて電話をしてみると、子どもたちの学費の足しだといいます。
「いや、ふたりとも奨学金の世話になっているから大丈夫なんだよ」
と断りましたが
「まっ、たまたまあったから」
と、のんきに言うきり。
それにしても、米のなかに突っこむかな……
このひとは、昔からこんな調子。あわてもしなければ、意気ごむところなんかも、見たことがない。なにごとも、人の波長に合わせたりはしない。ひとり遊びな好きな子どものようなところがあるのです。ときどき、河原で「きれいな石」なんかを拾ってきましたっけ。ちょっと変わった名で「新葉」という字が入っている。そういえば、名前のとおりだなぁ。

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