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2021年5月

2021年5月27日 (木)

雨の夜の「無援の抒情」

雨の季節はあまり好きではありません。まったくきらいでもありません。なぜか、この季節は詩や歌を読みたくなります。
肌寒い雨の夜に、書棚からときどき持ってくるのが、『無援の抒情』(道浦母都子 岩波書店同時代ライブラリー)。「無援」と「抒情」という言葉をこのように折り重ねる歌詠みは、きっとこの人以外にはおるまいと、いつも思う。ふるえるほどの切実さの前に、立ちすくむ自分がおります。

線路へと線路へと飛び降りる激しき群れにわれも混じりつ

連行のわれを門まで見送りて言葉なく血の気なく陽子突っ立つ

捕われの友に届ける食物を買いつつ不意に涙ながるる

恋う友は同志なるかと問う友に向かいて重たき頭を振りぬ

炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る

もろき詩型もろきわれゆえ相抱きこの世の闇を渡りゆくべし

いくつかを拾い読みしたあと、もうなんども読んだ散文「水子のような言葉たちへ」に、また立ち寄ったりする。詩や歌をつくる人の、いわゆる詩論や散文には、じつにその人らしさが詰まっているのです。
「何故、短歌なのか、それは私自身にもわからない。自らの思いのままに、ひっそりと本音をいおうとすると、何故か短歌が選ばれる」(水子のような言葉)

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2021年5月23日 (日)

『アララト』

〈シネマ手帖〉No55

人も人生も、どこかは欠けています。大きかったり、小さかったりしますが、欠損のない人生なんてまずない。 S_8

「スギちゃん」は脳血管障害によって左半身に重篤な麻痺を抱えています。仕事を辞めて、かつては石や草を描くことに専念していたけれども、いまや創作活動はできない。手に震えが残り、パズル以外には「なにもやる気がおこらない」のです。
絵を描く夫が好きだった妻「サキちゃん」は、深夜にファミレスで働き、家計を支え、家事と介護で身を粉にします。彼女のたったひとつの望みは、絵を描く夫の姿を再び目にすること。
あざとい言い方をすれば、彼女は彼女が好きだった夫からなかなか解放されない。一見ささやかな望みは、じつはエゴイステックな欲求でもありました。
だから彼女が献身的に働き、望めば望むほど、「スギちゃん」が抱える不自由は、より重みを増してゆく。
「別れようよ」
スギちゃんが、いつもの角張った、たどだどしい口調で言います。
「やだよぉ」
一呼吸おいてサキちゃんが、あふれんばかりの愛情をこめて返します。

回復の見込みなく、リハビリさえ嫌がる夫との関係に行き詰まったにサキちゃんはある日、職場の若者に体を委ね、求め、忘れていた性愛の昂ぶりをとりもどします。そのひたむきささに、小さくなかった彼女の「欠損」もまた、ありありと浮かび上がるのです。
決定的なできごとがあり、やがて夫は高齢の父に引き取られ、彼女の手に離婚届がわたされるのですが……。

タイトル「アララト」は、旧約聖書にあるノアの箱船が流れ着いたところです(現在のトルコの山という)。ただ、漂流する2人がたどり着いたかに見える場所が、アララトかどうかはどうもわからない。残りの人生の時間は長く、背負うべき欠損はそのまま残されています。
それでも監督の越川道夫は、不安な未来をぼやかすでもなく、虹をかけるでもなく、ちっぽけな人間の体と心が必死にあがき伸びようとする瞬間、つまり「いまの精いっぱい」を、最後まで観る者に差しだします。
性のいとなみによる「わかりあう」一滴は、横たわる2人に水音が届く渓谷をつたい、いずれひろい海原にでる。絶望と可能性が表裏のほんとうの漂流は、きっとそこからはじまるはずです。
わたしたちは、いくつかの「もし」を持たされたまま、幕が下りた灯のなかに座っていることになる。

(監督・脚本:越川道夫/撮影監督:武井俊幸/音楽/宇波拓/出演:行平あい佳 荻田忠利 春風亭㐂いち 後藤ユウミ 鈴木博文 鈴木晋介他/2021年/120分/カラー 新宿K'cinema他)

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2021年5月17日 (月)

ここにいないひとのこと



なんだかね、書き留めておきたいことがないのです。このところ、しばらく。
身のまわりでなにも起きていないのではなくて、おきていることに反応しなくなってしまった、というだけのこと。
いつかの詩「こんなとき」じゃないけども
それでも、腹は減るわけです。
それでも、大時計の針は動くわけです。
ひとは、やっかいです。


ミヒャエル・エンデの昔のインタビューが、絵本雑誌に再録されていました。
もしいまエンデがいたら、どんな物語を構想したでしょうか。
ひょっとしたら、彼は書くことをやめてしまうでしょうか。
「私にまず書くきっかけを与えてくれるのは、遊びのアイデアを思いつくことです。そして、この遊びを作成する作業のなかで、それを面白い遊びにするため、個人的な体験や今日の問題から生まれるさまざまなものを、私はつかいます。でも、このルールを考えだすことが、私にとって最重要なのです」
すきまのない社会にもっとも不要なものが、エンデ作品に不可欠だった「遊びのアイデア」なのですから。


もしいまケーテ・コルヴィッツがいたら、なにを描くでしょうか。
彼女は、世界のなにを見ようとするでしょうか。その画はやはり、「種を粉にひいてはならない」と、毅然と語るにちがいないでしょう。
このところ、ここにいない人たちのことばかり考えてしまうのは、なぜでしょう。ここにいない人たちが大切にしたことが、ここにないからでしょうか。それとも、わたしに見えないだけでしょうか。


所用で新大久保にでかけた帰り、スパイスをすこしまとめ買いしました。袋詰めのものを瓶に移し替えたら、美しいこと。香りまで、美しい。
最近、もっとも気持ちがおどったことですーー
クミン、コリアンダー、ターメリックのパウダーは、まったく魔法の砂です。朝の光にかざしてうっとり眺めていたら、ゴータマ(ブッダ)のことが思い浮かびました。さてゴータマは、スパイスのこの輝きを目にしたでしょうか。

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2021年5月 9日 (日)

黄色いお坊さん

たいそうりっぱな山門を見上げておりました。
近所の寺院ですが、なかには入ったことがなかった。山門の向こうで庭を掃いていた若いお坊さんと目が合い、「こんにちは」とあいさつして、なんとはなしに山門をくぐってしまいました。
歩きだすと、さっきのお坊さんが声をかけてくださった。関西訛りでした。
「寺社仏閣を観るのはお好きですか?」
「ええ。ここの宗派はなんでしょう?」
「曹洞宗です。まぁ、比較的穏やかないい仏教だと思いますよ」
と言ったあと、本堂に足が向いたわたしの背にこんな言葉を投げました。
「もし、仏教の中身について、わからないこと、知りたいことがあればなんでも訊いてください」
いまここで会った方から、こんな言葉をかけられるとはまったく想定外でした。つい、足がとまりました。


「こういう寺院、いまの仏教を、もしお釈迦様が見たら仰天するでしょうか?」
「仰天なさるでしょう」
即答でした。
「お釈迦様は、その場所、その時、その人に会った生き方を、その人にわかる言い方で説かれたんです。教義や体系をおつくりになったわけでは、ありませでしたから。死後、なんとかお釈迦様の考え方を残したいと考えた弟子たちが集まり、ときどきの言葉を集めた。それが教典となったわけです。原始仏教の基礎となる三蔵は、サンスクリットではなくパーリ語で記録されました。上座部仏教は、これをベースにしています。しかし、北に伝わり日本に入った仏教は、だいぶ形を変えました。曹洞宗を開かれた道元さんも、日本人にわかりやすくされました」
「中国経由ですから、中国の思想も入ったでしょうか」
とわたしが訊きました。
「もちろんです。もともとの仏教の姿は、黄色い(服の)お坊さんたちが、わりかしと忠実に伝えています」
「黄色?」
「そうですね、黄にちかい色を着るのはスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスといったところ。南回りで残った仏教です。南伝仏教」
わたしは9年前に逝った友人が、黄色をとりわけ好んでいたのを思いだしました。宗派にかかわらず、よく教典を読んでおりました。彼はわりと密教の教典を気に入っていましたっけ。


仏教は、勉強しすぎないほうがよく理解できると、お坊さんは言いました。
「やりだすと、おもしろいからつい勉強しすぎる。でもこれだというものに出会ったら最低必要な部分だけをとりだして、日々実践したみたほうが、いろんな理論に精通するよりも、お釈迦さんが考えたことをよく理解できると思います」
境内を一巡して帰ろうとすると、お坊さんがまた声をかけてくださった。
「こんど座禅会に来ませんか?」
「はい、ありがとうございます」
門を出たとき、はっと思って持っていたスケッチブックのはしに「黄色いお坊さん」という一語をメモしました。なんだか、いい。

 

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2021年5月 6日 (木)

どうかしてる

どうかしてる、ね。
この国の政府のことです。
コロナ禍で社会が疲弊しています。1年以上もの時間があったのに、ついに検査機能は拡充できないまま、他国のような営業補償も議論できず、医療機関への支援策は打ち出せず、あげく、ワクチンの確保よりGo Toなるレジャー支援に大金を投下するーー
つまり政府として民の命と生活を守るためにやるべきこと、できるはずだったことはなにもやらず、この混乱の渦中に憲法改正に夢中になっている。
緊急事態条項を憲法に盛り込めば、こういう危機を乗り越えることが可能になるというのが、彼らの論旨。緊急時に政府が法と同等の効力を持つ政令を、国会の承認もないまま制定できるようになることを指しています。憲法さえしっかしていれば、こんなことにはならなかったと、暗にそう言っているわけです。
社会の不安に乗じてなにを言いだすかと思えばーー盗っ人猛々しいとは、このことだね。

狂っている、よ。
だってね、いまやるべきことが一つとしてできない無能な人に、危機に直面したときに強力な権限を持たせて、いったいなにができると思います? 無能な権力者みずから、思い描く憲法を自分でつくってしまったら、どうなると思います?

安倍内閣以降の自民党執行部の視野に、救済すべき国民などいないのです。彼らには、国家しか見えない。つよい国家の復古しか頭にない。民不在のそれって政治なのかい? ただの自己実現じゃん。
異常だよ、ね。正気じゃないよ、ね。
国家があって、国民がいないのだもの。
でも、そういう為政者が総選挙のたび、多くの票を集めてきたという厳然たる現実は、認めざるをえません。
どうかしてるのも、狂っているのも、異様なのも、一票を持つ国民の方じゃないのかい、と切り返されたら黙ってうなずくよりありません。

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2021年5月 5日 (水)

大きくなったらなりたいもの?


子どものころ
大きくなったら、なにになりたいの?
と、訊かれました。よく知った人にも、よく知らない人にも。
こたえに窮しました。よく知っている人には、その人が喜びそうなことを言うこともありました。まぁ、嘘です。まっとうにこたえるのは、めんどうくさいのです。


こういうことを訊くおとなが、どうも好きになれませんでした。
あまりにも不躾でしょ。
正直なところ、なりたい職業などありませんでした。わからないもの、そんなさきのこと。
だから、わたしにとって、おとなのあいさつがわりみたいなこの質問は、告白の強要でした。それも、虚偽の告白です。苦痛でした。とりわけ嫌なのが「夢は?」という言い方。職業=夢なのか? この窮屈さといったらない。


どうして、子どもは「なりたい職業」というものを、持たなくてはいけないのだろうか。
では世のおとなたちは、なりたい職業を早くから見つけ、一本道をひた走り、その職について自分自身に満足した暮らしをしているのでしょうか。
でも、もしそうでないとすれば、それを子どもに問うのは、デリカシーがなさすぎです。野暮です。


そもそも、なりたい職業を持つことはそんなに大切なのでしょうか。もっといえば、職業とはそれほど人生にとって重要なものなのでしょうか。
職業の選択肢は、生まれついた環境と、持てる能力によって大きく左右されます。個人の資質だけでは、どうにもならない要素を多分に含んでいます。とはいえ、社会の階層は職業によって大きく規定されることも、いまとなってはよく知っています。だから重要でないとは言わない。それを承知のうえで、やはり思う。
どんな職種、企業に属するかを、まるでその人格と同一化するかのような常識は、無条件に受け容れたくはないな、と。


なりたい職業はありませんでした。
けれども、わたしにはこんなふうに暮らしたいというイメージだけは、わりと早くからありました。しいていえば、それが将来の夢です。
森のなかの小さな家で、犬と猫と暮らしている。近くには小川があって、魚が泳いでいます。夏は森を歩いたり釣りをして、冬は家にこもって暖炉の前にすわる。なぜか、ちかくに牧場があり、またその近くに頑固者の猟師が住んでいる、ただ、それだけ。ここに欠落しているのは「職業」です。暮らすための手段。
でもそれは手段だから、目的ではありません。踏みつけられたりぶつかったりしながら、現実的に考えてゆけばいいだけです。
この生活の理想図というのは、いまだにさほど大きくは変わっておりません。住み処は大きな森ではなく、海がさほど遠くない小さな町の片隅にあり、庭にレモンが茂っているのです。犬と猫がいる部屋の風景はそのまま。働く自分の姿は、やはりそこにない。

こどもの日、子どものころから疑問だったことを、ふと思いだしました。

 

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2021年5月 1日 (土)

このごろのこと


あぁ、もう5月ですと。
机の前にグラッパをもってきて、少しやる。やりながら書いています。


3年前に引っ越した街に、久しぶりに行きました。行き先は、長らく通う駅前の歯医者です。自動車が入ってこられない駅前の広場(支線であるためここのが終点)。当時は、毎日ぶちとどこかに立っておりました。低い階段に座って、到着する電車をただ眺めていることがよくありました。なんの用がなくとも、だれを待っていなくとも、次の電車が到着し、改札を人が流れていくのを、見つめているのです。いまとなっては、こういう駅のつくりがきわめて稀であることがよく分かります。
あぁ、わたしはこの街がとても好きだったのだと、あらてめて思う。


失うこと、得ること。
このバランスが極端にくずれ、自力で回復が不能だと悟ったとき、ひとは希望を見失う。その自覚がないままに、わたしのものであるはずの心身をうまく扱えなくなってしまう。すなわち、生を維持するのが難しくなるのかもしれない、と思う。

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