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2021年6月 3日 (木)

鶴見俊輔の「もし」

昨日の続きというわけではないけれど、鶴見俊輔の『詩と自由』(思潮社)をぽろぽろと拾い読みしていて、つまずいた場所に少したたずんでみたい。

「明治の歌謡」というエッセイがあります。
彼が小学生時代に親しんだ唱歌を思い起こし、それが国家主義とどう結びついていたのかを、個人的な体験を織り交ぜつつ、ゆるゆると語っております。
話の末尾にこんな一節がありました。
「もし大東亜戦争が、原子爆弾の投下によらず、重臣層の平和交渉によらずに進んでいたとしたら、国家に対する無私の献身のエネルギーが、国家改造のエネルギーに向かって自発的にきりかえられるようなある一点に達したのではなかろうか」

わたしは、言わんとしていることを即座に理解しかねて、またここを読み返しました。で、この一節は次のように続きます。
「幕末に両者が合流し、明治初期に両者が合流し、昭和初期に両者が合流に近いところにさしかかったとおなじように、大東亜戦争の末期も、このような条件の成立を準備していた」
「両者」とはだれ(なに)とだれ(なに)か。前文にもどっても、これが明確に示されておりません。推察するに、現状の国家を動かす政治権力に対抗する、「国家に対する無私の献身のエネルギー」がわきおこり、衝突するということらしい。
つまり、「昭和初期に両者が合流に近いところにさしかかった」という出来ごとは、昭和11年の二・二六事件を指すのでしょう。

彼は1922年の生まれですから終戦時は23歳です。
二・二六事件とはちがう形で、「大東亜戦争の末期も、このような条件の成立を準備していた」。それが、戦時の社会を見届けた若者の実感だとしたら、どうしても立ちどまらずをえないのです。どうしても、お尋ねしたいのです。
そのころ、国家指導層を引きずり降ろすエネルギーが、どこにあったのかと。もしあったとすれば、それは敗戦必死の国をどこに導くことができたのか。
そもそもポツダム宣言の受諾を、あの無残な全面降伏を「重臣層の平和交渉」などと、さらりと言ってのけていいものですか、と。

二・二六事件を振り返るとき、わたしが必ず立てる問いがあります。
もし、あのクーデターが成功して、将校たちが希望した軍の人材によって軍中枢と政府が刷新されたならば、泥沼の日中戦争はどこで決着をみたか、と。で、そのさきの日米開戦もなく、昭和20年の敗戦も当然なかっただろうか、と。

青年将校たちの「国家に対する無私の献身のエネルギー」は、たしかに純真でした。でも、青年将校たちの理想「天皇親政」と、社会にあまねく浸透していた大日本帝国の神聖と正義(植民地主義)とは、見え方がちがうだけのおなじベクトルではなかったのか、とわたしには思えるのです。
さすれば、敗戦間近に「国家改造のエネルギーに向かって自発的にきりかえられるようなある一点」がありえたという「もし」は、あまりに目出たいのではないか。くだんの文章をなんども行き来しつつ、では鶴見さんが、はっきりと書かなかったこととはなんだったのかを想像するのです。

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