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2021年6月19日 (土)

プロジェクトの目的

東京オリンピックは、はなから「開催する」こと自体が目的だったようです。手段が目的と、すっかり入れ替わっています。であれば、なるほど「アルマゲドンがないかぎり」撤退は、ありえないわけですね。

ある巨大プロジェクトの部分ぶぶんの作業において、目的が省みられることってあまりありません。しかし作業の統合、決定的な判断を求められる局面では、目的が必ず呼びだされます。目的を持たないプロジェクトは、羅針盤を持たない航海とおなじです。

はじめたら最後、目的がお砂糖のようにたちまち溶けてしまうーー
どうして、こんなことになるのでしょう。
意図する実益の確保が別にあって、目的は公表のためにつくられるからです。
では、どうして実益を、すなおに目的にしないのかといえば、多くの場合、それが犠牲を強いる社会の利益に(資するように見えながら、じつは)合致しないからです。もともとが、それらは一部の受益者のための受益者によるプロジェクトなのです。

戦争も、一種の国家プロジェクトです。
さきの15年戦争では、植民地をめぐる散発的な衝突が、ついに全面戦争に発展しました。
ときの政府は、究極の目的たる「植民地権益」=「支配による収奪」を語らず、手段であるはずの「聖戦」そのものを民に向かって掲げました。盧溝橋事件から2年目に、陸軍情報部がつくったパンフ『国家総力戦の戦士に告ぐ』(まっ、大衆向けの聖戦の手引きだよね)によれば、聖戦とは「東亜の諸民族の為に新しい天地が開かれ、其の安寧と繁栄と幸福とが約束され」た状態を、(なぜか)日本がつくってあげる戦争です。「全人類がコロナウィルに勝利した証」を、(なぜか)日本が立ててあげる、というのと似ていますね。東亜や全世界のために、自己犠牲を覚悟で「やってあげる」のです。肝心な「なぜか」は、口にしません。

ともあれ、戦争をはじめた時点で、すでに目的が溶けているのは、東京オリンピックとおなじです。
振り返ってみれば、近代日本は大掛かりな国家プロジェクトを打ち出すとき、公益(自国民の人権や隣国の権利を含む)と格闘してこなかった。つまり、公の合理的な目的を制定することがずっとできなかった。言い方を変えれば、到達点を定めず、進退の判断ができない型(制約)のなかで、手段だけを頼りに前進をはじめることが常態化しました。その度ごと、目前の出来事を解決するため、言葉をもてあそび安易で空疎な目的をひねりだしていく。そこには、具体性も誠実さもない。
皇国史観が、その根深いところにあったと私は思うのです。あらゆる価値を超越する天皇の国は、存在そのものが神聖です。皇国の正義を掲げてしまえば、異なる価値観、ぶつかる利害の調整をもはや必要としないのです。それ以上、それ以外の目的など存在しないのですから、言葉も、理論もいりません。

組み込まれた予定通り(一部の自治体をのぞき)聖火リレーは粛々と、いまも遂行されています。「実施」が、目的だからともかくやるのです。沿道に出てきて、スポンサーの景品を受けとって空々しい行列に手をふる人々と、聖戦の局地報道(大本営発表だよ)のたびにわきだしたかつての提灯行列と、なにがどうちがうのか、わたしにはよくわかりません。
わかることは、せいぜいひとつ。ようするに、目的などなくとも、見えずとも、一定数の、それも少なくない人々はこうやって動員できるという厳然たる事実です。目的が、支離滅裂の「進め一億火の玉だ」だって、ぜんぜんかまいやしないのです。

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