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2021年8月22日 (日)

人間らしさ

書きかけのテキストが、PCのなかにありました。ひょっとしたら、以前に書きかけのまま公開していたかもしれません。余白については、年がら年中考えているので、書きかけのものが散らばっていて、自分でもいつごろなにを考えて書きだしたのか分からなくなっています。重複カ所があったらご容赦くださいませ。


工場の発明は、効率化の時代の幕開けでした。安価な労働力を一ヶ所に集約し、工場の能力を最大限に引きだす。そのためには、工場の稼働時間をなにより最優先させる必要がありました。
休まずに工場を動かすために、労働力は数値化され管理されました。すなわち、人の価値が生産性をあらわす数に置き換わった。労働者は服をはぎとられて、人間らしさを失うことを余儀なくされました。飯を喰うために。


資本主義は、成長します。
宿命的に大きくならざるを得ません。投資した資金を回収し、利益を上げつづけるのですから。成長するために、どん欲に資源を喰います。
自然、水、鉱物資源、そして人間を。
そのうちに、人間の周りに空気のように存在した空間や時間を食い尽くす。
余白を失うことによって、人は人間らしさを喪失します。
はて、人間らしさとはなにか
必ずこの問いにつきあたる。
つまるところ、人間らしさについて考えることを飛び越して、資本主義を考えることはできない。


人間らしさを考えるーー
人間らしさと切り離せないのが、「余白」です。
余白があればこそ、人は逡巡し、たちどまり、ふりかえる。暮らしのなかの余白が、人間をつくってきました。
アテナイのソクラテスの学びは、ともかく議論(問答)することでした。そこでは「議論」の生産性など、だれも問いませんでした。議論のためにはるばる旅をし、議論のために論客をむかえる。時間をつかい、言葉を尽くすことは、人間性への問いとなった。こうしてソクラテスは、「よりよく生きること」を考える倫理学の扉を開きました。


ギリシャ文明のあとに起こったローマ帝国の競技場跡に、住み着いた孤児が「モモ」(『モモ』 ミヒャエル・エンデ)。持たざるモモが、たったひとつ持っていたのが「他人の話に耳を傾ける力」。ところがあるとき、身よりのない彼女の世話を焼いたり、雑談にやってきていた街の人々の足が、ぱたりと途絶える。みな「灰色の男」に余分な時間を預けてしまい、ぶらぶらしていられなくなったのです。預けた時間は、利殖する。つまり「金利」が、人々の過密な労働のモチベーションだった。朽ちることない貨幣の自己増殖力が、街にあった時間を一変させてしまうのです。


余白を売って働くことは、いまや当たり前になりました。労働力への対価は下落し、よもや「金利」などつきはしないのに。金利もないのに、わたしたちはどうして余白を、売ってしまうのか。
売らないと、暮らしていかれなくなったからです。選択肢などない。つまり、現代の資本主義は、労働者たる市民が「人間性」を持たない前提に成り立っているといえます。

 

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