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2021年9月 6日 (月)

「末法」「末世」の方向感覚

手にとっていた片山杜秀著『歴史という教養』(河出新書)のなかに、「末法」(まっぽう)という言葉がありました。ブッダの正しい教えが存在した世を「正法」といいます。ですから、正しい教えがなにか、わからなくなってしまった世が末法となるわけです。
ブッダの教えが薄れ、彼の後に続いて悟りの境地に達した者が、ひとりもいない世になってまった、ということ。悟りを説ける者がいなければ、その時代の菩薩たち(成仏の可能性がある修行者のことですから、わたしも菩薩のひとりです)は、なににすがればよいのかが、わからない。「末法には、末法の生き方がある」と片山氏は言います。そのとき、たよることができる綱が「史観」。

夕方、書棚にあった阿満利麿著『法然入門』(ちくま新書)を、たまたま開いて拾い読みしたところ、冒頭にあった「末世」(まつせ)が、目にとまりました。
文字通り、世も末の状況。阿満氏は「時代の常識が無力になり、生きる目的や生きがいが定かではなくなってしまっている」と、法然が生きた13世紀と現代の共通点を語る。

「末法」と「末世」。
ようするに、正しい教えによって照らしだされた価値が、すっかり見えなくなってしまった渾沌たる状況です。
それは、かつてもあり、そしてまさに今、今日のことでもあります。渾沌がきわまる社会を生きぬくための処方箋は、おそらくない。
直筆がきわめて少ない法然のそれに、「念仏為先」という4字があります。「なにを差し置いても「念仏」がすべてだという主張」(『法然入門』)なのだそうです。
すなわち「南無阿弥陀仏」です。
たった6文字の念仏は、成仏にいたる確かな方法であり、そしてひたすら願うことにこそ現生を生きぬく真理がある。法然は、そう確信しました。

「真理を方向感覚と考える。その場合、間違いの記憶を保っていることが必要なんだ」(『日本人はなにを捨ててきたか)』
故・鶴見俊輔氏が、関川夏央氏との対談で語ったこと。
ならば、パンデミックの終息が見えず、政治の無軌道ぶりが常態化したいま現在、南無阿弥陀仏を唱えることと、過去(己と人類)を問いなおすこととは同じ方向(浄土)をめざす行為といえまいか。わたしならばそのように読みます。
さまざまな方法や視点から歴史をたどってみると、いく通りもの解釈ができ、いくつもの、それこそ無数の「地図」が描けます。歴史を凝視し、俯瞰し、地図を描けば描くほど、ひとは迷う。
でも、恐れ、「迷う」ことをぬきに、よりよい未来など選択できるはずもない。おおいに、深く迷うからこそ「南無阿弥陀仏」と唱えずにおけない。
いまの権力者たちにもっとも欠けているのは、過去への真摯な問いかけではないかと思う。
南無阿弥陀仏

 

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