日記・コラム・つぶやき

2012年1月17日 (火)

「カメであった」か

今月末までに担当編集者に書籍原稿を手わたす約束をしており、少々せっぱつまっております(今度こそ延期いたしません、ハギワラさん)。少し間があきましたが、「ちよちよ」を放ってあるわけではありませんので、ご心配なく。

いま時期、朝6時にそとにでると、まだ真っ暗ですね。いつものコースを走って折り返すところで今朝、「おやっ」と眼をこすりました。
川沿いの道に大きな柵がおかれている。通行止めです。〈こんなもの見たことないぞ!〉と、そのまますすんでみると、驚いたことに柵はすっと消えた。路上に落ちた街灯の光と、歩道に並んでいた車止めのポスト2本が十字に交錯して、遠目から「柵」に見えていたようなのです。
少々あきれました、自分に。こんな見まちがいをしたことはいままでにはありませんでした。視力はよかったほうですから。年齢相応に視覚の精度が落ちたこと、さらには視覚情報を解析する能力がかなり低下しているのを実感しました。
あまり咄嗟の判断を過信しすぎるな、という体からの信号だと受けとめることにしました。

執筆においては、この1年、2年、体力に比例するように遅筆がひどくなりました(といっても、締め切りにはわりと正確ですが)。一度使った資料を、数時間もかけて探しているなんてことも、ままあります。記憶と整頓の力、双方の機能が混乱してきているのです。
筆がびゅんびゅんと走らなくなったのに、もうひとつ原因があるようです。
年とともに、現象のみでなにかを語れなくなってしまったのです。因果に眼を凝らし、さらにはありえなかった「もし」に、時間をかけて寄り道するようになった。「結果」だけを提示して「これは、こういうことだったのだ」と自分をどうにも納得させられないのです。
明らかに、疑り深くなった。よくも悪くも、一点へのこだわりが増した。しつこいともいいます。もう瞬発力に任せて仕事をする年ではなくなってしまった、ということなんでしょうか。

原稿を書きながら数年前のノートを開いていたら、面白いメモを見つけました。
辻まことが、甥の彫刻家に言ったそうです。
「平気で人前で一生懸命にメモをとるヤツがいるけど、ありゃバカだ。メモしなきゃ覚えられないようなことなら、最初から聞くな」
マスメディア嫌いの彼のことですから、新聞か雑誌の記者さんのことでも念頭にあったのかもしれません。ともあれ、この人は、話をしながら相手の顔も見ないでノートとってるような姿は嫌いだろうな、と思いました。かく言う彼の話術は冴えわたっていて、切り返しも巧妙です。文章に詰め込まれた思考、閃きにも、ウサギの跳躍のようなキレがありました。やや鋭すぎる批評眼を、山という舞台によって和らげることで、彼の画文の世界は輝いた。のんびりした語りに反して視覚は、画文にも登場する野のウサギやキツネのように俊敏に動いていた。けっしてカメではなかった気がします。

文明への批評眼とくれば、わたしはミヒャエル・エンデをすぐに思い浮かべます。彼は、カメという動物をとりわけ好みました。『モモ』にもカメは、時間を司る異世界と現世を自在に行き来できる重要な役回りで登場します。カメはエンデにとって、文明の速度に抗して、人間と社会の普遍的な関係を見据える象徴でした。
近代の金融活動にまで及んだ彼の思索は論理的で硬質なものでしたが、ファンタジーの骨格によって批評精神は巧みに物語にとりこまれた。表現のスタイルはまったく別々ですが、エンデも辻まことも、話に間接的な構造を用いたことで、より自分の思想世界を深化させるのに成功した点は、共通しています。

物語をつくるときのエンデの視点はカメのそれでした。ある現象を低いところから、じっと見あげる。けれども一方で、情報を集めて掘りさげる機敏な分析能力を持って、現代を読み解こうとも試みている。そもそも彼は、「カメであった」のではなく、意識的に「カメになった」のです。より広く、より遠くまで見通せる視覚を獲得するために。

前出の古いノートを読むうちに、れいの辻まことの言葉をせっせとメモしていた自分の姿を、はからずも遠目に見ることになりました。と、それだけで自分が十分滑稽な存在であると、認めないわけにはいきません。おそらくわたしは前者、もともとが「カメであった」方の人間のようです。ウサギはもちろん、「カメになった」人ともちがう、ネイティブのカメとなりしょうか。
ほとほと足の遅い原稿を前に、カメはカメの仕事しかできない、を重く自覚する年始めとなりました。
躍動感にあふれるウサギのようなことをやろうとしても、それは土台無理なんだろう。そのことに気づくのが、おそすぎたのか、それとも意外にはやっかたのかは、自分でも首をかしげるところですがーー。

雑話です。ブチはどこのイヌにもあいさつしません。いや、イヌの自覚が薄いので、それができないようです。けれどもネコを見つけたときだけ、「ようっ!」とばかりにフラフラと寄っていきます。ひょっとして君はネコになりたいのではないかと、疑りたくなることがときどきあります。〈ブチよ、イヌはネコにはなれないのだよ、カメがカメであるように〉 Img_0566


さて仕事にもどるとします。

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2011年11月 9日 (水)

夕暮れの犬

一匹の犬が、道を急いでいます。日が落ちようとしています。
〈君はどこへ行こうというの?〉
そろそろラッシュがはじまろうというときです。犬に気づいた、わたしの前の車が、ちょっと徐行してよけてゆく。わたしも慌ててハンドルを左に切って、ちらっと横に眼をやりました。
柴犬ぐらいの体格で、首輪をしています。抜け毛がだまになっていて、毛並みはやや荒れているように見えました。
〈どうしたの?〉
気にかかってバックミラーで確認すると、犬はやはり黙々と駆けていました。

先ごろ、青森県に行ったときに眼にしたこの風景が、なかなか脳裏を去りません。その犬を見かけたのは、六ヶ所村から、宿をとった三沢の市街に戻る途中でした。犬は、市街地の方に向かっていました。その先に目的地があるかのような足どりでしたがーー
はたして、彼には帰る家などあったのでしょうか。どうして、ひとりぼっちだったんでしょう。あれからどうしたでしょう。

東京に帰ってきてから、なんどかベルギーの絵本作家、ガブリエル・バンサンの『アンジュール』(BL出版)を書棚からとりだしました。文字がなく、絵のみで構成された彼女の最も有名な一冊ですから、知っている方も多いでしょう。
ある日、なだらかな平原を走っている車の窓から、成犬が放られます。そう、捨てられたのです。飼い主の車を追っかけた末に振り切られた犬は、とぼとぼと道を歩きだす。車にひかれそうになったり、おっぱらわれたりしながらも、犬はただただどこかに向かって歩くのです。
エンピツで引いた彼女の単純にして強い線は、犬の骨と筋肉を動かし、迷いや苦悩の表情を浮きあがらせ、文字以上に犬の孤独を語りかけます。
やがて行き場のない犬は、同じように寂しい影を引いた少年を見つけ、近寄っていきます。少年の後ろには、小さな鞄がひとつ。どうやら彼もひとりぼっちらしい。けれども、その先のシーンを彼女は描きませんでした。物語はここまでです。ひょっとしたら彼女は、どこにも転がっている普通の人生を、この犬に託したのかもしれません。
だから、これで十分だったわけです。絶望もなければ、ハッピーエンドもない。安直な感動も安心も必要なかった。

バンサンの無口な物語と、あの日わたしが観た犬ーー。言いようもなくもの悲しい孤独感に覚えがあるのは、わたしだけではないはずです。あると思っている帰る場所も、じつはいっときの借宿で、実はだれもがあてなく道を急ぐ「アンジュール」なのかもしれません。
『アンジュール』の最後について、わたしはこう思うのです。
素性も分からぬ犬と少年がすれ違うことなくすっと近づけたのは、互いに孤独を知っていたからだと。ただそれだけでじきに別れ別れになろうとも、一瞬でもわかりあえたのなら、その出会いはきっと互いの胸で永遠となる。
逆に、孤独を知らないもの通しが、どんなにたくさん集まって大きな「友だち」の輪をつくったとしても、気持ちは一向に静まりません。無数の出会いはただ消滅するためにあるようなものです。ずっと不安ですから、自分がひとりでないことを確かめるために、ほかのだれかを疎外して集団のなかに、小さな集団をつくることになります。集団(仲間)づくりは、どこまでも果てしなく続きます。

「人生とは孤独であることだ。誰も他の人を知らない。みんなひとりぼっちだ」
とヘルマン・ヘッセは言いました。その「ひとりぼっち」をこうとらえた人もいました。
「孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならぬ。孤独でいるときのみ人間は自由なのだから」 Img_0529
哲学者のショーペン・ハウエルです。 
あの犬の姿を思い浮かべるたび、わたしは孤独の意味の考えます。

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2011年5月27日 (金)

やす請けあい

夕べ、ほろ酔い加減で家にもどったら、仕事場の机上に留守中の言づけがメモしてありました。九州のミウラさん(元秀山荘社長)から電話があったようです。
彩林倶楽部パンフレット 150〜200字程度
〈あっ、しまった。すっかり忘れてた〉
彩林倶楽部というのは、大分の飯田高原に建つミウラさん所有のロッジです。そのパンフのコピー文を頼まれていたのです。
「ここの文章なんだけどさーー。もう辻さんがいなくなっちまったから、あんたに頼みてえんだが」
と言われたのは、2ヵ月以上も前でした。
東京駅近くにあった伝説的な山道具屋「秀山荘」は、辻まことの洒脱な広告によってつくられた、と言っても過言ではありません。たとえスポットとはいえ、代役がとてもつとまらないのは百も承知ながら、
「あっ、いいですよ」
と即答したのは、たぶんそれがフグ懐石をご馳走になっていた最中だったからに、ほかなりません。目先のエサにつられる、やす請け合いは、わたしの悪い癖です。

その仕事がのびのびになっていたのは、ひとつには、どこかで「辻さん」を意識したせいでしょうね。「なあに、あんたの思ったようにやってくれりゃいいんですよ」とミウラさんはおっしゃったが、そうもいかないのです。
とはいえ、すでにパンフレットのデザインはほぼできている。わたしのコピー待ちというのだから、ただちにやらねばなりません。
今朝は早くから、ちょっと酒の余韻をかりてとりかかりました。参考までにと、『辻まこと 山とスキーの広告画文集』(秀山荘)を開いてみました。
「人生には要らない荷物が
多すぎることに気づくのは
山旅での収穫である。
そして『人生にどうしても必要な道具がある』
ことに気づくのも山旅での収穫である」
こんな調子です。
ちょっと拾い読みしたのが、どうもいけなかった。辻まこと調がちらついたら最後、書けども書けども収拾がつかなくなったのです。

〈いいやもう、適当でーー〉
開き直ったすえ、やっと原稿を送ったのは昼ちかく。思い知ったのは、わたしは、「○○調」という仕事が、ほとほとできない。これはフリーランスの人間にとっては、致命的なことです。臨機応変に雑誌やクライアントのニーズに応じられないのだから。
そこで、「まてよっ」と思ったのでした。
辻まことも、彼独特の画風、言葉づかいを生涯、微塵も変えませんでした。徹頭徹尾、辻まことでした。でも、仕事には十分に恵まれていました。
では、辻まことにあって、自分にないものーーってなんだろう。むろん、彼はわたしよりも、はるかに器用でした。でも、そればかりではない気がします。 Img_0369

この先は長くなるので、次の書籍「辻まことのはなし」(仮題だよ)で、じっくりと展開することにいたしますかな。

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2011年5月16日 (月)

イナダだ。

近くのスーパーに、見事なイナダが出ていました。
60㎝ぐらいありましたかな、それで390円也。
衝動買いは、久しぶり。

さあ、さばこう。
ちょっと待て、描いてみよう。

しばし脱線しましたが、
イナダは、ゴマ味の漬け丼になりました。

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2011年4月28日 (木)

書店にならびますょ

『君は隅田川に消えたのか ーー藤牧義夫と版画の虚実』(講談社)
が、ようやく刊行できるはこびとなりました。
5月12日から、都内の大型書店を皮切りに、棚に並びます。刷り部数はわずか4000部ですので、申し訳ありませんが、全国一斉にとはいかないようですね(ネット販売もご利用くださいませ)。値段は税込み「2415円」です。けっして安価な本ではありませんから、どなたにも、気軽に一冊どうぞとはお声をかけにくいのが心苦しいところです。
ひとことだけお許しいただけるなら、
「10年後にも、きっと読み返せる普遍的な書であるはず」
と申し上げたく思います。手塩にかけた一冊の生命力を、筆者は無垢に信じています。
版元である講談社の販促誌『波』5月号(80円)に、刊行に際して次のような一文を寄せました。全文を掲載します。

隅田川ミステリーよ 終末へ

〈ずいぶんと、やっかいな本だなぁ〉
 われながら、そう思うのです。重たい拙著『君は隅田川に消えたのか ーー藤牧義夫と版画の虚実』のことです。
 三百五十ページ分もの厚み、二千円を超す定価というのが、いまどきの消費第一路線の書籍づくりにそぐわないのは、言うまでもありません。そもそも版元泣かせです。
 で、もっと「やっかい」なのが、新刊について人に尋ねられたときに、作者である私自身が「これは、こんな本です」と、ひとくちに説明できないことなのです。
 まずもって、主人公である藤牧義夫を知っている人は、そういないでしょう。この異能の表現者をどうとらえるかが、書き手にとっては相当に「やっかい」な課題でした。
 わずか二十四年しか生の痕跡がない藤牧義夫は、昭和のはじめ、郷里の群馬県館林から上京して、数年の間にじつに魅力的な版画作品をつくった若者です。が、単純に版画家とくくれない、重量感ある足跡が短い創作史のなかに残されているのです。
 東京都現代美術館が所蔵する彼の比類なき傑作である、白描絵巻《隅田川両岸画巻》三巻がそれです。ほか、試作品を絵巻仕立てにしたひと巻が、館林市第一資料館に残されています。
 描かれたのは、東京での生活圏だった隅田川沿いの風景と、さる宗教団体の庭園です。当人の書きこみによれば、制作は昭和九年の秋から冬にかけて。画作に用いたのは、おそらく墨と細筆一本でしょう。
 その細筆で引いた線のみで、彼は映像のごとく連続性を持ったリアリティーあふれる風景を、つむぎだしていきます。三巻の総延長は、ざっと四十五メートル。前代未聞の大作です。
 不思議なのは、彼がこれだけの絵巻を公開するでもなく、ただしまい込んでいたことなのです。制作の動機は、いまだによくわかっていません。絵巻をつくった翌昭和十年、九月の雨の夜に藤牧は忽然と姿を消します。消息はそれっきりなのです。

 三年ほど前でした。ひとつの美術作品を切り口に作者の人生を浮き彫りにしていくテレビ番組で、藤牧義夫の代表的な版画《赤陽》が紹介されていました。わたしは藤牧義夫の名を知りませんでしたが、意外や《赤陽》には覚えがありました。
〈あぁ、あの版画だーー〉
 鋭い線で彫られた神々しいまでの鮮烈な絵に、すぐに記憶の回路が反応したのです。そのわりには、記憶のありかが判然としない。いつごろどんな状況で、どの美術全集を開いたのかが、一向に思い出せません。ただ「セキヨウ」という一風変わった画題と、それを観たときの、脳天を叩かれたような感触だけがありありと蘇ったのです。
 それにしても、《赤陽》の作者が、得体のしれない絵巻を残し、若くして消息を絶っていたという事実は、少なからず私を動揺させました。
 藤牧のことを一年ほど頭の片隅で寝かした末に、わたしは手紙を書きました。宛先は、藤牧義夫を発掘して遺作展を開いた画廊「かんらん舎」の主・大谷芳久です。なんでもいいから、藤牧義夫という人間を想像する手がかりがほしかったのです。
 ところが、かえってきたのは素っ気ない反応でした。「本当の藤牧版画とはなにか。それがはっきりしないかぎり、作者たる藤牧義夫がいかなる作家だったかなど考えようもない」と言うのです。このときわたしは初めて、どんな経緯あってか、彼がひとりで藤牧版画の真贋検証を十年ちかくも続けてきたことを知るのです。
 とりあえず、大谷が筆をとる同人誌『一寸』を十冊ほどとりよせてみたところ、そこには、にわかにうなずきかねる奇っ怪な報告が詰まっていました。
〈いったいこれは事実なのだろうかーー〉
 こうしてわたしは、かんらん舎のドアをたたくことになったのです。

 暇さえあれば、藤牧が残した少ない文章と作品を眺め、『一寸』四十号分ほどの難解な検証報告をくり返してめくる。考えに詰まると、かんらん舎の大谷の作業机の前に座っては、「なぜ」「なに」と問う。そんなことが、ほぼ二年間つづきました。
 藤牧義夫をわかろうとするには、なにをおいても、残された二冊の手製本を精読する必要がありました。そこにあるのは、在りし日の父の姿です。彼が、父に抱き続けた尋常ならざる敬慕に寄りそってみると、点でしかなかった作品世界と人生がつながりだし、次第に表現者・藤牧義夫の姿が見えてきました。
 ただし、知られざる藤牧義夫像をむすぶだけで、本書を終えることはできません。舞台にたとえるならば、そこはまだ第一幕です。霞がかった話が展開しだすのは、じつは次の幕からになります。
 藤牧の行方不明から四十年以上が過ぎた昭和五十二年、さる美術全集に収録されていた《赤陽》を目にした若い画廊主が、無名のまま埋もれていた藤牧義夫の遺作展を開こうとします。
 若き日の、大谷芳久です。
 大谷はそこで、多くの藤牧版画を所蔵する老版画家に、遺作展への協力をもとめます。当時、重鎮の版画史家として聞こえた小野忠重です。自作本や制作にたずさわった現代版画の美術全集に、藤牧作品を紹介してきたのは、まさにこの人でした。
 じつは小野は、かつて藤牧が所属した版画の研究グループ「新版画集団」のリーダーで、彼とは「画友」だったのです。
 この遺作展を契機に、小野の手のなかで眠っていた作品群は美術館に収められ、小野が遺作展図録に執筆した短い評伝とともに、藤牧義夫の名は美術館関係者、愛好家の間に知れわたってゆきます。
 さてーー。そうやって美術の世界ですっかり定着した藤牧義夫伝説だったのですが、あるとき、もう一枚の《赤陽》の存在が明らかになったことがきっかけで、ひとりの男がこれに不審の目を向けるのです。思想、信仰というまったく新しいカードを手に、疑惑の一枚をめくったのは、美術随想集『気まぐれ美術館』で知られる作家で、「現代画廊」店主だった洲之内徹でしたーー。
 ときをへて登場者をたがえて展開するこの物語は、既成の藤牧義夫像をひっくりかえす評伝であり、小さな画廊の孤独な闘いの足跡でもあり、そして美の価値のもろさ、死角を描いたミステリーだともいえます。
 執拗な真贋検証はやがて、突然の失踪という藤牧義夫最大のエアポケットに繋がってゆきます。

 はからずも今年は、藤牧義夫が生まれてからちょうど百年目にあたります。この夏には郷里の群馬県立館林美術館が、来年一月からは神奈川県立近代美術館が、大々的な回顧展を予定しています。もし両館が、昨年末に刊行された大谷研究の集大成『藤牧義夫 眞僞』(学藝書院)が示した見解を評価するなら、おそらく展示は数少ない真作のみにとどまり、かつて公開した多くの作品についても、なんらかの説明があると思われます。このあたり、本書を手にしたみなさんも、一緒に注目してみてください。
 できれば、両展覧会場に足をはこぶことをおすすめいたします。おそらく、かの白描絵巻(この肉筆はまちがいなく真作です)も公開されるはずです。
 藤牧義夫をめぐる長いながいミステリーは、節目の展覧会を経てようやくエピローグに向かうのかもしれません。そう期待しています。

訂正とお詫び
『本』掲載文では、今夏に遺作展を予定しているのは「館林市第一資料館」となっていますが、上記の通り「群馬県立館林美術館」の間違いでした。関係者のみなさまごめんない。訂正いたします。

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2011年4月18日 (月)

「わからねえ」

無沙汰をいたしました。
さる人を訪ねて、しばらく九州は大分の山中、飯田高原というところにおりました。昨夜、久しぶりに山を降りて、福岡空港から東京に戻ってきたところです。

その昔、東京駅近くに「秀山荘」という、山とスキー用品の店がありました。辻まことのつくった、画文広告がいわばここの看板で、皮肉の効いた洒脱なコピーをご記憶の人もありましょうか。お会いしてきたのは、この秀山荘の名物社長だったミウラさんです。85歳の翁と飯田高原で会うのは、これが二度目です。

高原では、勝手知ったるロッジの一室に荷をおきました。ミウラさんが所有するこのロッジ、大食堂をそなえた管理棟と、宿泊用の10室ぐらいを離れに具えておりますが、訳あって営業はしておりません。ですから、鬱蒼たる森のなかにあるでっかい施設を、贅沢にも、ひとりでつかうことになります。
いつもどおり、朝6時から走り、管理棟のバルコニーでトーストとコヒーの朝食、それからスケッチブックを持って、下の集落にぶらりとおりてゆく。
そうこうして日が高くなると、ようやく床から起き出したミウラさんが、わたしの携帯を鳴らすのです。
「どこかに、昼飯でも食べに行きませんかね」

店を畳んだいまでもミウラさんは(現在はこちらで小規模のレンタルスキー屋を経営)、金と人の生かし方ともいうべき矜持を持ってあたりを眺めまわしています。なんでも数値化して、ビジネスの秤にかけてしまう。事象を漠然と眺めるのでなく、すぐに
「自分ならーー」
と考えだします。
料理屋に行けば下駄箱の靴で、人のいり具合、客層を推しはかっています。飛び入りの喫茶店でも、客単価や回転、利益率を弾いています。サウナに入れば、サウナ室のマットをはじからひっくりかえします。
「こうやりゃあ、次の人が気持ちよくつかえるってもんでしょう。気持ちよけりゃ、また人がくる」
ここに定住してじきに20年になるといいますが、歯切れのいい江戸言葉は抜けません。

コーヒーをやりながら、ミウラさんが、自分流の仕入れと、客への品の見せ方を気分よく語っていたときです。せっかくだから、ひとつ聞いてみました。
「ぼくのみたいな、時流にはみだした売りにくい本、ミウラさんならどう売ってみせますかね」
翁はめずらしく、考え込みました。で、ややあって口をひらいたのです。期待した言葉は、
「わかんねなぁーー」でした。
「だってオレ、本はあつかったことがねえんだもの」
わたしは、つい大笑いしてしまいました。
わかること、わからないこと。できること、できないこと。この線引きは、気持ちいいほどあきらかです。べつの話題のときでした。れいの「売りにくい本」の会話を急に思い出した翁が、こう切り出しました。
「コマムラさんの本の売り方はわからねぇけど、そんなことよりも、あんたが売れる本を書くほうが簡単じゃねえですか」
じつに的確な指摘です。
「どんな売れねえ時代でも、必ず売れてる本はあるでしょ。いまの人の好みを考えたら、2万や3万はすぐ売れるはずですよ」
わたしは、ゆっくりうなずいてから返しました。
「たぶん、売るだけの目的では、ぼくは一冊だって本を仕上げることはできないでしょうね。弱ったことに、それは書く力にならないんです。まっ、金もうけをしたけりゃ、そもそも違う仕事をしてますよ」
今度は、翁が笑いだしました。
「そりゃそうだ。そっちは、あたしと人種がちがうんだったな。こっちは商人だから、そっちの人のことは、皆目わからねえな」
そういえば、辻まことのパトロンであったミウラさんは、彼の絵や文についてのウンチクをひとことも垂れたことがありません。絵の世界だの思想だの、金で割りきれないことは、彼にはわからないからです。「辻さんのことは好きだったけど、文章だのはてんでわかんねぇよ」 Img_0355_2
わたしも、こんなに朗らかに「わからねえ」と言ってみたいもんです。言えそうで、言えない言葉なんです。

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2011年4月12日 (火)

新刊の題名です

昨夜は日付が変わる直前、千鳥足でもどってきました。池袋でお会いした編集ハギワラ氏に、「信仰と芸術」といった講釈をたれ(ご静聴に感謝します)、近所の中華居酒屋で、ひま顔のマスターを相手に、
「久しぶりに本を出すんだけどさぁーー」
と自作を自画自賛。方々で、ごタクをならべてまいりました。
一風呂あびてから、お約束どおりブログの続きをーー
と思ったものの、気持ちよくなってつい睡魔に負けました。

ようやく書籍の題名が決まりました。
いつだったか、タイトル決めについてのあれこれを、このブログで書きましたが、最終的には講談社の担当編集者がつくったものに落ち着きました。

君は隅田川に消えたのか
藤牧義夫と版画の虚実

ほか数本が最後まで選考に残っていたのですが、
「コマムラさんが書く物は、(特に今回は)ノンフィクションとはいえ、わりと文学的ですね。その点を考慮して、ノンフィクション的なタイトルでなくても、いいのではないかと思います」
と、こちらを提示していただきました。
わりといい感じだと思っています(ありがとうございます、ナカムラさん)。 Img__2

発売は、5月の連休あけになりそうです。肝心な内容についてですが、少々長くなりそうなので、また日をあらためてお伝えします。

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2011年4月11日 (月)

はたらけ はたらけ

たったいま、書籍の再校ゲラを速達で、講談社の担当者に戻しました。
かなり進行の日程が、忙しなくなっています。先週の木曜日にゲラを受けとってから、この4日間は時間に追いまくられました。実質、まる1日強はアルバイト、半日は絵のグールプ展の搬入、搬出作業(世話になっている人が主催したのもので、つい断りそこねて)にとられ、実質、作業に費やせた時間は2日半弱といったところでしょうか。

350ページをこす分量、おまけに非常に入りくんだ内容ですので、直しもさらさらとはすすみません。
〈1分をおしんで、時間と原稿と格闘した〉。大げさじゃなくって、そんな実感が重い肩に残っています。

当然ながら、眠る時間がだいぶ削られました。
で、このブログが書けない、というフラストレーションもたまっております。
今日はこれから、短いエッセイの依頼をいただいた資生堂の「花椿」編集部の方と、下北沢で打ち合わせ。それから同じ下北沢にある空手道場で1時間の指導(これも介護と一緒にはじめた、大事なアルバイトです)。終わったら池袋に戻って、山川出版の方と次回予定の書籍の打ち合わせ。
いったい自分がなにもので、職業はなんなのか、ときどきわからなくなります。

いずれも、ブログを読んでくださる方々にまるで関係ない、私的なスケジュールですが、朦朧とした頭が体に楽をさせようとして、どれかひとつを勝手に消去しそうなので、自分の覚えとしていま書き殴っております。
おっと、もう時間です(遅刻かも)。書き残した用件は夜、アップします。
では、行ってきます。
〈はたらけ、はたけらけ。なまけもののわたしよ〉

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2011年4月 8日 (金)

情報という刺激

子どもを公園につれていくにもラジオを手放せなくなったという、あるお母さんの話を知人から聞きました。常に福島第一原発の放射能関連ニュースをキャッチするためだそうです。
その一方で、身近ではこんな会話もあります。
「なんかさ、放射能情報ってもう花粉情報みたいになってきちゃったよね。慣れってすごいね」
どちらも、よくわかります。
政局ばっかりの政治報道とおなじで、一定量以上の情報を得たがための、両極の〝症状〟と見えます。

私事ですが、道具を上手につかいこなせません。小さなころから、図工やら音楽はてんでだめだめでした。不器用はなおらないから、いまも絶えず進化する情報ツールの足に、まったく追いついていけない。引き離されるばかりです。
遅くはじめたブログが精一杯で、とてもツイッターまでは手が及びません。多チャンネル化するテレビからも遠ざかる一方で、この数年は電源を入れない日も増えました。かといって、ITネットで積極的に情報を得るわけでなしーー。
どうしているのかといえば、朝夕にBGM程度にFMラジオ局の周波をとらえ、ざっと新聞の朝刊に目をとおす(夕刊はなし)ぐらいです。面倒くさければ、新聞すら読みません。
わたしの乏しい情報処理能力からしたら、そのあたりが限界みたいです。それでも、この程度のつつましい生活にはとりたてて支障はありません。

まわりを見るかぎり、大震災以降、みな総じていつも以上に積極的に情報を求めるようになったようです。被災地のようす、原発、東電、政府の対応ーー。
ときどき、こんなわたしに「○○がこういってますけど、それってほんとなんですか!」と尋ねる人もいます。
むろん、ほんとんどが初耳です。気がつけば、聞かれたわたしが、いい聞き役になっています。

震災や事故にそなえ、常時、多チャンネルの情報に接するのは決して悪いことではありません。ただし、過ぎればそれも不健康な気がします。過剰に不安や興奮をかきたてられてしまうからです。
ひとの心身はそういう状態に長く耐えきれるようにはできていません。ですから均衡をたもつため、情報をあびながらも知らずとそれに鈍感になっていく。有事には、むしろわそのことのほうが危険だと思うのです。
情報というのは、刺激そのものです。薬物とよく似ています。服用がすぎると、必ず副作用がおきてきます。
多量の情報はときに人を、考えるべきを考えない気楽な批評家、傍観者に変えてしまいます。そういうこと、震災にかぎらずいくらでもありますよね。

ちょっと乱暴な考え方かもしれないけれど、世が混沌としたときこそ、あえて情報の摂取量を絞り込んでみたらどうだろうか。大量にむさぼるそれは感情のガソリンでしかないけれど、わずかずつでもゆっくり噛めば思考の糧にはなるはずです。
「放射能ってさーー」「東電なんてヒデぇ会社はーー」「菅の野郎ーー」「ったく、枝野ってのはーー」
近ごろ、いち個人の激烈な原発評や政府評を聞かされるたび、そんなことを思ったります。
〈ただ腹をたてるだけならば、いっそうテレビを消した方が健康にいいのに〉
それともわたしが、のんきすぎのかしら。

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2011年4月 4日 (月)

おかげさまで

気づいたら昨日、我が茶房への来店者数、つまりアクセス累計が1万件をこえていました。
このブログをはじめたのは、昨年の11月18日。ざっと5ヵ月弱かけて、5桁に到達したわけです。IT網による驚異的な情報速度、伝播力を思えば、これまでの日平均約75件弱というのはなんとも微笑ましい数字で、わたしらしいでしょう。

過去最高のアクセス数は、ブログをはじめて3日目の350件。これは理由がはっきりしていて、さる人気ブログを運営する知人が、そこで告知してくださったからです。
ただ遠方からのぞきにきてくださった方々は、ーー結果をみるかぎりーー見事に一見さんでした。翌日からはまた元通り、20件ほどとなりました。
さしずめ、人通りまばらな路地にたつ、間口の狭い喫茶店です。おまけに、主は依怙地です。
こんな「ちよちよ」に、100件を越す訪問があるようになったのは、ごく最近です。

それまでIT環境を発信の道具として、まったくつかってこなかったわたしがこの経験から学んだのは、ブログというメディアの典型的な特質です(こと日本における)。
ブログは、それこそ星の数ほどいるユーザーのなかから、コアなファンを惹きつける力に非常にすぐれているのですね。双方向機能と即時性をもっと鮮明にしたツィッターの出現で、その側面がさらにあらわになった気がします。
ただし、そういう磁力をおびやすいのは、小さな世界に特化したコアな情報である、という前提がつきます。それにつくファンは趣味がはっきりしていて、ジャンルを超えて交わっていくことがまずない、といったことも抑えておいたほうがいいでしょう。
裏返せば、繁盛サイトを持ちたければ、それを意識する必要があります。なにはともあれ、わかりやすい看板は必須です。

で、考えるところありました。〈あっ、いまの売れる書籍の条件と、重なるところ大だ〉。
そもそも流行るサイトをぽっとつくれるぐらいなら、わたしはとうに売れるもの書きになっていたはずだ、と。
妙に納得してしまいました。
そんなわけで、狭くコアな世界でもなく、まして読んで得する情報もまったくない我が茶房のぼんやりとした店構えは、やっぱりこんな調子であるわけです。
〈身の丈以上のことはできないんだなぁ〉。1万という数字を前に、あらためて思ったものです。
「茶房ちよちよ」に、日々お寄りくださる奇特なみなさま。心よりありがとうございます。
とりいそぎ、来店者数のささやかなご報告と御礼まで。
おりをみて、リアル「茶房ちよちよ」でもどっかで開催しましょうかね。参加者あればですけど。
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