考えごと

2021年9月 6日 (月)

「末法」「末世」の方向感覚

手にとっていた片山杜秀著『歴史という教養』(河出新書)のなかに、「末法」(まっぽう)という言葉がありました。ブッダの正しい教えが存在した世を「正法」といいます。ですから、正しい教えがなにか、わからなくなってしまった世が末法となるわけです。
ブッダの教えが薄れ、彼の後に続いて悟りの境地に達した者が、ひとりもいない世になってまった、ということ。悟りを説ける者がいなければ、その時代の菩薩たち(成仏の可能性がある修行者のことですから、わたしも菩薩のひとりです)は、なににすがればよいのかが、わからない。「末法には、末法の生き方がある」と片山氏は言います。そのとき、たよることができる綱が「史観」。

夕方、書棚にあった阿満利麿著『法然入門』(ちくま新書)を、たまたま開いて拾い読みしたところ、冒頭にあった「末世」(まつせ)が、目にとまりました。
文字通り、世も末の状況。阿満氏は「時代の常識が無力になり、生きる目的や生きがいが定かではなくなってしまっている」と、法然が生きた13世紀と現代の共通点を語る。

「末法」と「末世」。
ようするに、正しい教えによって照らしだされた価値が、すっかり見えなくなってしまった渾沌たる状況です。
それは、かつてもあり、そしてまさに今、今日のことでもあります。渾沌がきわまる社会を生きぬくための処方箋は、おそらくない。
直筆がきわめて少ない法然のそれに、「念仏為先」という4字があります。「なにを差し置いても「念仏」がすべてだという主張」(『法然入門』)なのだそうです。
すなわち「南無阿弥陀仏」です。
たった6文字の念仏は、成仏にいたる確かな方法であり、そしてひたすら願うことにこそ現生を生きぬく真理がある。法然は、そう確信しました。

「真理を方向感覚と考える。その場合、間違いの記憶を保っていることが必要なんだ」(『日本人はなにを捨ててきたか)』
故・鶴見俊輔氏が、関川夏央氏との対談で語ったこと。
ならば、パンデミックの終息が見えず、政治の無軌道ぶりが常態化したいま現在、南無阿弥陀仏を唱えることと、過去(己と人類)を問いなおすこととは同じ方向(浄土)をめざす行為といえまいか。わたしならばそのように読みます。
さまざまな方法や視点から歴史をたどってみると、いく通りもの解釈ができ、いくつもの、それこそ無数の「地図」が描けます。歴史を凝視し、俯瞰し、地図を描けば描くほど、ひとは迷う。
でも、恐れ、「迷う」ことをぬきに、よりよい未来など選択できるはずもない。おおいに、深く迷うからこそ「南無阿弥陀仏」と唱えずにおけない。
いまの権力者たちにもっとも欠けているのは、過去への真摯な問いかけではないかと思う。
南無阿弥陀仏

 

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2021年8月22日 (日)

人間らしさ

書きかけのテキストが、PCのなかにありました。ひょっとしたら、以前に書きかけのまま公開していたかもしれません。余白については、年がら年中考えているので、書きかけのものが散らばっていて、自分でもいつごろなにを考えて書きだしたのか分からなくなっています。重複カ所があったらご容赦くださいませ。


工場の発明は、効率化の時代の幕開けでした。安価な労働力を一ヶ所に集約し、工場の能力を最大限に引きだす。そのためには、工場の稼働時間をなにより最優先させる必要がありました。
休まずに工場を動かすために、労働力は数値化され管理されました。すなわち、人の価値が生産性をあらわす数に置き換わった。労働者は服をはぎとられて、人間らしさを失うことを余儀なくされました。飯を喰うために。


資本主義は、成長します。
宿命的に大きくならざるを得ません。投資した資金を回収し、利益を上げつづけるのですから。成長するために、どん欲に資源を喰います。
自然、水、鉱物資源、そして人間を。
そのうちに、人間の周りに空気のように存在した空間や時間を食い尽くす。
余白を失うことによって、人は人間らしさを喪失します。
はて、人間らしさとはなにか
必ずこの問いにつきあたる。
つまるところ、人間らしさについて考えることを飛び越して、資本主義を考えることはできない。


人間らしさを考えるーー
人間らしさと切り離せないのが、「余白」です。
余白があればこそ、人は逡巡し、たちどまり、ふりかえる。暮らしのなかの余白が、人間をつくってきました。
アテナイのソクラテスの学びは、ともかく議論(問答)することでした。そこでは「議論」の生産性など、だれも問いませんでした。議論のためにはるばる旅をし、議論のために論客をむかえる。時間をつかい、言葉を尽くすことは、人間性への問いとなった。こうしてソクラテスは、「よりよく生きること」を考える倫理学の扉を開きました。


ギリシャ文明のあとに起こったローマ帝国の競技場跡に、住み着いた孤児が「モモ」(『モモ』 ミヒャエル・エンデ)。持たざるモモが、たったひとつ持っていたのが「他人の話に耳を傾ける力」。ところがあるとき、身よりのない彼女の世話を焼いたり、雑談にやってきていた街の人々の足が、ぱたりと途絶える。みな「灰色の男」に余分な時間を預けてしまい、ぶらぶらしていられなくなったのです。預けた時間は、利殖する。つまり「金利」が、人々の過密な労働のモチベーションだった。朽ちることない貨幣の自己増殖力が、街にあった時間を一変させてしまうのです。


余白を売って働くことは、いまや当たり前になりました。労働力への対価は下落し、よもや「金利」などつきはしないのに。金利もないのに、わたしたちはどうして余白を、売ってしまうのか。
売らないと、暮らしていかれなくなったからです。選択肢などない。つまり、現代の資本主義は、労働者たる市民が「人間性」を持たない前提に成り立っているといえます。

 

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2021年8月15日 (日)

ウルトラ・ナショナリズム

どうしてこんな国になってしまったのか
考えない日はない。
8月15日は「終戦」の日ではありません。天皇の玉音放送がラジオ電波で流れた日です。強いて命名するなら、玉音の日。「ぎょくおん」なる特殊な言葉のとおり、じつに内向きな記念日です。
太平洋戦争の降伏文書の調印式が連合国と交わされたのは、1945年9月2日です。この日が、世界が認める(つまり外向きの)大日本帝国の本当の敗戦の日であり、もっと正確に言えば「降伏」の日なのです。

本日、またスガ政権の閣僚数名、安倍晋三前首相が靖国神社に参拝をなさった。
靖国とはなにかーー
降伏から76年がたっても、たったこれだけのことさえ、ケリをつけることができない、日本人のあわれな姿を彼らは身をもって国内外に示してくれました。

問題の核心は、A級戦犯合祀の可否とか、死者への「哀悼の意」のなにが悪いのかとか、中韓の反発とかではないのです。靖国をどう理解しているか。それだけです。つまり、歴史への態度。
日清・日露戦争後の1911年に、論考「日本独特の国家主義」(『中央公論』)において、すでに河上肇が
「日本人の神は国家なり。而して天皇はこの神たる国体を代表し給う所の者にて、いわば抽象的なる国家神を具体的にしたる者がわが国の天皇なり」
と、明確に述べています。国体の概念をもっとも完結に述べた文章とも言えます。ウルトラ・ナショナリズムが社会を覆う満州事変の20年前も前のこと。
そして、靖国をこう位置づけます。
「既に国家主義は日本人の宗教たり。故に看よ、この国家主義に殉じたる者は死後皆な神として祀らるることを。靖国はその一なり」
すなわち、「日本独特の国家主義」を成立させている一装置というわけです。

戦後、政府の「靖国参拝問題に関する懇話会」の委員をつとめた江藤淳は、そんなふうには考えませんでした。論考「生者の視線と死者の視線」では、外国人には理解されえない「日本の国柄そのもの」だという言い方をしました。ようするに、靖国の存在は、国家主義などとかかわりのないものだと。
「日本人は生者のことだけを考えていい民族ではないのですね。生者が生者として生き生きと生活するためには、死者のことを常に考えていなければいけない」
それが、たまたま靖国という形になったというわけです。
わたしは、うなずけません。江藤の主張は断じてちがう、といわざるをえない。そうであるならば、なぜ空襲に焼かれた自国の市民を祀らないのか。なぜ、侵略した国々で奪った無数の命を祀らないのか。祀れないのか。なぜ、英霊は兵士(軍属ふくむ)なのか。
むずかしい話ではありません。靖国は、植民地主義をむき出しにした大日本帝国の精神そのもの、戦争遂行のための政治システムにほかならないからです。国民を兵士として消耗し続けるためには、死後は英霊になるという「担保」が必須だったのです。

説明を尽くしても、おそらく理解できないでしょう、安倍さんも小泉元総理のご子息も、日本会議のメンバーであるおおくの代議士たちも。それが超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)というものです。

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2021年8月 8日 (日)

東京一極へ

台風10号が太平洋を北東に進んでいる。
朝から雨。ぶちと朝8時まで朝寝坊しました。散歩もなし。
すごく蒸し暑く、汗がふきだしてくる。
こういう日は、なにもしないのがいい。

 

東京オリンピックが終わります。
賛否を分けた「開催とりやめ」は、政府、東京都に一蹴され、「いま」がなにごともなく、晴れやかに眼前にある。しかも、メディアの大々的な報道により、いやがうえにも競技は盛り上がったようで、「やってよかった」の合唱が、これから大きくなると思われます。
くわえて、電波メディアはオリンピアンの「英雄」を次々とバラエティーやトーク番組に招集するはずです。オリンピックは「物語」と「笑い」に変換され、二度消費される。閉会してなお、日本的エンタメになってしばらくメディアに居座る見通し。
結果として、否定的な論調は跡形もなく漂白されるそうな予感です。
気づけば、眼前に総選挙の扉が開いているーー

いまある事態を肯定する。そんな圧倒的多数が、マイノリティーをさらに圧迫していく転機が、ふりかえれば2021年の夏であった。そんなふうに時代が移っていくかもしれないな、と思っています。

見えにくくなっていますが、このオリンピックによって、より強固になったことのひとつに東京の一極化があるのを、覚えておきたい。これから、「東京」という一極があるゆるジャンルにあらわれ、価値を支配する。
こんな推測がみごとにはずれてくれればいい、と思うばかりです。

きょうの夕飯をどうしようか考えています。カマスの干物を焼くか、レモンのスパゲッティーにするか。

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2021年7月18日 (日)

桂川潤さんのこと

業界で名の通った桂川潤さんの仕事を、わたしはそのときまでまるで知りませんでした。同じ沿線の住宅地で開かれた装丁展に出かけたのは、たしか一昨年です。
会場は、親しい個人宅の離れで、のんびりとしたものでした。机にかなりの数の本が並べられ、本人が立っておりました。一冊ずつ手にとって開いて回り、感じたことがありました。
この人はきっと「装丁」とはなにか、書籍とはなにかを始終考えている、ということでした。しゃれたパッケージをつくるというより、テクストを表にどう引っ張り出すか、試行錯誤してきた跡が、たしかに見えてくるのです。

急に思いつき、リュックから『おぎにり』をとりだしました。
で、不躾は承知で、本人に直接、この詩集のカバーリニューアルをお願いすることは可能かを打診してみたのでした。
桂川さんが目にとめたのは版元でした。
「未知谷さんですか……」
「ええ、売れないのを承知でなぜか引き受けてくれたのです」
「版元さんは、その本に(売り上げ以外の)なにかがないと引き受けてはくれませんよ。たいへん、ていねいなつくりですね」
「和紙張りにしてくれました」
そんな会話をしました。ひとしきり話してから、急な申し出を快諾してくだった桂川さんは、名刺と自著のエッセイ集『装丁、あれこれ』(彩流社)をくれました。
「要らぬコストをかけずに、どのようなリニューアルが可能か、知恵を絞ってみます」
その日の返信メールには、こうありました。

SNSを通じて知る桂川さんは、一箱古書市はじめ本に関わるさまざまなイベントに労をおしまず飛び出していく行動派の「本の虫」でした。よく現場に出没し、自分の意識になにかを加えていました。
『装丁、あれこれ』のオビに故・加藤典洋氏が記した
「装丁家は本のため/何といろいろなことを考えるものか。/その不器用さが思想家のようだ。」
を地でいく、まさに「考える人」でした。デザインのみならず、本にまつわる実情を総合的、かつ有機的にとらえることができる稀な人でもありました。その意味で、優れた批評家でした。著作や多くのエッセイの文体は、簡潔で明朗です。
さらに、わたしていどの知り合いにもときおり呼びかけをしてくださる、たいへん気遣いの方でもありました。

桂川さんの仕事に注目しはじめ、その考え方や本に接する態度に、わたしは強く共感しました。いつしか、『おぎにり』のカバーリニューアルと抱き合わせで、2冊目の詩集のデザインはまるごと桂川さんにお願いしようと考えるようになりました。もちろん、版元に相談してその費用は自分で持つつもりでした。

昨年のいつごろだったか。練馬区立美術館の一室でクロッキーをやったあとにロビーに出ると、偶然にも桂川さんの姿がありました。忘れもしない、背筋がとおったすらっとした風貌でした。
小さな1人用テーブルに座った桂川さんは、その背中を小さくまるめて熱心に書きものをはじめました。展示に関する意見か、個人的なメモか分かりませんが、すぐには終わりそうもありませんでした。
じゃまになるかと思ったわたしは、背中に無言であいさつして美術館を立ち去りました。お見かけした最後が、それでした。
どうして、ひとこと声をかけなかったんだろうか、といまだに悔やまれます。

twitterのタイムラインで、訃報を知ったときは、ほんとうにおどろきました。
ちょっと早い。早すぎます。もっと本の世界にいてほしい方でした。
つかの間のおつきあいでしたが、出会いに感謝いたします。ほんとうに、お疲れさまでした。ご冥福をお祈りいたします。

ところで桂川さん、装丁の打ち合わせはどうしたらいいでしょうね……

 

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2021年6月19日 (土)

プロジェクトの目的

東京オリンピックは、はなから「開催する」こと自体が目的だったようです。手段が目的と、すっかり入れ替わっています。であれば、なるほど「アルマゲドンがないかぎり」撤退は、ありえないわけですね。

ある巨大プロジェクトの部分ぶぶんの作業において、目的が省みられることってあまりありません。しかし作業の統合、決定的な判断を求められる局面では、目的が必ず呼びだされます。目的を持たないプロジェクトは、羅針盤を持たない航海とおなじです。

はじめたら最後、目的がお砂糖のようにたちまち溶けてしまうーー
どうして、こんなことになるのでしょう。
意図する実益の確保が別にあって、目的は公表のためにつくられるからです。
では、どうして実益を、すなおに目的にしないのかといえば、多くの場合、それが犠牲を強いる社会の利益に(資するように見えながら、じつは)合致しないからです。もともとが、それらは一部の受益者のための受益者によるプロジェクトなのです。

戦争も、一種の国家プロジェクトです。
さきの15年戦争では、植民地をめぐる散発的な衝突が、ついに全面戦争に発展しました。
ときの政府は、究極の目的たる「植民地権益」=「支配による収奪」を語らず、手段であるはずの「聖戦」そのものを民に向かって掲げました。盧溝橋事件から2年目に、陸軍情報部がつくったパンフ『国家総力戦の戦士に告ぐ』(まっ、大衆向けの聖戦の手引きだよね)によれば、聖戦とは「東亜の諸民族の為に新しい天地が開かれ、其の安寧と繁栄と幸福とが約束され」た状態を、(なぜか)日本がつくってあげる戦争です。「全人類がコロナウィルに勝利した証」を、(なぜか)日本が立ててあげる、というのと似ていますね。東亜や全世界のために、自己犠牲を覚悟で「やってあげる」のです。肝心な「なぜか」は、口にしません。

ともあれ、戦争をはじめた時点で、すでに目的が溶けているのは、東京オリンピックとおなじです。
振り返ってみれば、近代日本は大掛かりな国家プロジェクトを打ち出すとき、公益(自国民の人権や隣国の権利を含む)と格闘してこなかった。つまり、公の合理的な目的を制定することがずっとできなかった。言い方を変えれば、到達点を定めず、進退の判断ができない型(制約)のなかで、手段だけを頼りに前進をはじめることが常態化しました。その度ごと、目前の出来事を解決するため、言葉をもてあそび安易で空疎な目的をひねりだしていく。そこには、具体性も誠実さもない。
皇国史観が、その根深いところにあったと私は思うのです。あらゆる価値を超越する天皇の国は、存在そのものが神聖です。皇国の正義を掲げてしまえば、異なる価値観、ぶつかる利害の調整をもはや必要としないのです。それ以上、それ以外の目的など存在しないのですから、言葉も、理論もいりません。

組み込まれた予定通り(一部の自治体をのぞき)聖火リレーは粛々と、いまも遂行されています。「実施」が、目的だからともかくやるのです。沿道に出てきて、スポンサーの景品を受けとって空々しい行列に手をふる人々と、聖戦の局地報道(大本営発表だよ)のたびにわきだしたかつての提灯行列と、なにがどうちがうのか、わたしにはよくわかりません。
わかることは、せいぜいひとつ。ようするに、目的などなくとも、見えずとも、一定数の、それも少なくない人々はこうやって動員できるという厳然たる事実です。目的が、支離滅裂の「進め一億火の玉だ」だって、ぜんぜんかまいやしないのです。

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2021年6月14日 (月)

熱狂があった


スガさんが、G7サミットでオリンピック開催の決意を表明なさったそうです。
よかったじゃないですか。
おそらく各国首脳にとって、そんなことはどうでもいいのでしょう。せいぜいが、「がんばってくださいね」と大人の顔で受け流したと思えます。だって相手は、こどもだもの。
それをそのまま「全首脳が支持」と、おおまじめに報道する日本のメディアのすごさよ。「ことほぐ」という言葉がとっさに浮かびました。


オリンピックを開いて、なにかが変わるでしょうか。
まさか1964年の東京オリンピックのように、西側の国々に遅れをとったアジアの小国が大躍進する起点になるとでも、本気で思っているのでしょうか。
その「まさか」であるならば、この国はすでに1964年以前の状態に没落しているという事実を、自ら外に向かって認めていることになります。
じゃ、そもそも高度経済成長によって実現した豊かさとはなんだったでしょうか。急伸した経済力によって、手に入れた(と思っている)ものとはなんだったでしょう。


オリンピックが「安全、安心」かどうか。現実的には重要なことだけど、この国の現在の混迷ぶりをとらえるためには、もっと過去に立ち返る必要があります。
いまいちど招致した地点へ。あのとき、だれが、なんのために、この巨大イベントを引き込もうとしたのか。社会は、どんなふうに東京大会の決定を受け止めたのか。あのときたしかに、ある種の熱狂があって、それはいまの政治状況をつくりだした気分とつながっているよね。そう、つながっている。

 

 

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2021年6月 3日 (木)

鶴見俊輔の「もし」

昨日の続きというわけではないけれど、鶴見俊輔の『詩と自由』(思潮社)をぽろぽろと拾い読みしていて、つまずいた場所に少したたずんでみたい。

「明治の歌謡」というエッセイがあります。
彼が小学生時代に親しんだ唱歌を思い起こし、それが国家主義とどう結びついていたのかを、個人的な体験を織り交ぜつつ、ゆるゆると語っております。
話の末尾にこんな一節がありました。
「もし大東亜戦争が、原子爆弾の投下によらず、重臣層の平和交渉によらずに進んでいたとしたら、国家に対する無私の献身のエネルギーが、国家改造のエネルギーに向かって自発的にきりかえられるようなある一点に達したのではなかろうか」

わたしは、言わんとしていることを即座に理解しかねて、またここを読み返しました。で、この一節は次のように続きます。
「幕末に両者が合流し、明治初期に両者が合流し、昭和初期に両者が合流に近いところにさしかかったとおなじように、大東亜戦争の末期も、このような条件の成立を準備していた」
「両者」とはだれ(なに)とだれ(なに)か。前文にもどっても、これが明確に示されておりません。推察するに、現状の国家を動かす政治権力に対抗する、「国家に対する無私の献身のエネルギー」がわきおこり、衝突するということらしい。
つまり、「昭和初期に両者が合流に近いところにさしかかった」という出来ごとは、昭和11年の二・二六事件を指すのでしょう。

彼は1922年の生まれですから終戦時は23歳です。
二・二六事件とはちがう形で、「大東亜戦争の末期も、このような条件の成立を準備していた」。それが、戦時の社会を見届けた若者の実感だとしたら、どうしても立ちどまらずをえないのです。どうしても、お尋ねしたいのです。
そのころ、国家指導層を引きずり降ろすエネルギーが、どこにあったのかと。もしあったとすれば、それは敗戦必死の国をどこに導くことができたのか。
そもそもポツダム宣言の受諾を、あの無残な全面降伏を「重臣層の平和交渉」などと、さらりと言ってのけていいものですか、と。

二・二六事件を振り返るとき、わたしが必ず立てる問いがあります。
もし、あのクーデターが成功して、将校たちが希望した軍の人材によって軍中枢と政府が刷新されたならば、泥沼の日中戦争はどこで決着をみたか、と。で、そのさきの日米開戦もなく、昭和20年の敗戦も当然なかっただろうか、と。

青年将校たちの「国家に対する無私の献身のエネルギー」は、たしかに純真でした。でも、青年将校たちの理想「天皇親政」と、社会にあまねく浸透していた大日本帝国の神聖と正義(植民地主義)とは、見え方がちがうだけのおなじベクトルではなかったのか、とわたしには思えるのです。
さすれば、敗戦間近に「国家改造のエネルギーに向かって自発的にきりかえられるようなある一点」がありえたという「もし」は、あまりに目出たいのではないか。くだんの文章をなんども行き来しつつ、では鶴見さんが、はっきりと書かなかったこととはなんだったのかを想像するのです。

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2021年5月27日 (木)

雨の夜の「無援の抒情」

雨の季節はあまり好きではありません。まったくきらいでもありません。なぜか、この季節は詩や歌を読みたくなります。
肌寒い雨の夜に、書棚からときどき持ってくるのが、『無援の抒情』(道浦母都子 岩波書店同時代ライブラリー)。「無援」と「抒情」という言葉をこのように折り重ねる歌詠みは、きっとこの人以外にはおるまいと、いつも思う。ふるえるほどの切実さの前に、立ちすくむ自分がおります。

線路へと線路へと飛び降りる激しき群れにわれも混じりつ

連行のわれを門まで見送りて言葉なく血の気なく陽子突っ立つ

捕われの友に届ける食物を買いつつ不意に涙ながるる

恋う友は同志なるかと問う友に向かいて重たき頭を振りぬ

炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る

もろき詩型もろきわれゆえ相抱きこの世の闇を渡りゆくべし

いくつかを拾い読みしたあと、もうなんども読んだ散文「水子のような言葉たちへ」に、また立ち寄ったりする。詩や歌をつくる人の、いわゆる詩論や散文には、じつにその人らしさが詰まっているのです。
「何故、短歌なのか、それは私自身にもわからない。自らの思いのままに、ひっそりと本音をいおうとすると、何故か短歌が選ばれる」(水子のような言葉)

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2021年5月17日 (月)

ここにいないひとのこと



なんだかね、書き留めておきたいことがないのです。このところ、しばらく。
身のまわりでなにも起きていないのではなくて、おきていることに反応しなくなってしまった、というだけのこと。
いつかの詩「こんなとき」じゃないけども
それでも、腹は減るわけです。
それでも、大時計の針は動くわけです。
ひとは、やっかいです。


ミヒャエル・エンデの昔のインタビューが、絵本雑誌に再録されていました。
もしいまエンデがいたら、どんな物語を構想したでしょうか。
ひょっとしたら、彼は書くことをやめてしまうでしょうか。
「私にまず書くきっかけを与えてくれるのは、遊びのアイデアを思いつくことです。そして、この遊びを作成する作業のなかで、それを面白い遊びにするため、個人的な体験や今日の問題から生まれるさまざまなものを、私はつかいます。でも、このルールを考えだすことが、私にとって最重要なのです」
すきまのない社会にもっとも不要なものが、エンデ作品に不可欠だった「遊びのアイデア」なのですから。


もしいまケーテ・コルヴィッツがいたら、なにを描くでしょうか。
彼女は、世界のなにを見ようとするでしょうか。その画はやはり、「種を粉にひいてはならない」と、毅然と語るにちがいないでしょう。
このところ、ここにいない人たちのことばかり考えてしまうのは、なぜでしょう。ここにいない人たちが大切にしたことが、ここにないからでしょうか。それとも、わたしに見えないだけでしょうか。


所用で新大久保にでかけた帰り、スパイスをすこしまとめ買いしました。袋詰めのものを瓶に移し替えたら、美しいこと。香りまで、美しい。
最近、もっとも気持ちがおどったことですーー
クミン、コリアンダー、ターメリックのパウダーは、まったく魔法の砂です。朝の光にかざしてうっとり眺めていたら、ゴータマ(ブッダ)のことが思い浮かびました。さてゴータマは、スパイスのこの輝きを目にしたでしょうか。

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