茶飯ごと

2021年9月13日 (月)

ない

机のうえにあった茶封筒をのぞいたら、1万円しかありません。
おやおや、2万円はどこいった?
ほかの封筒に入れてたかな。山積みの書籍や資料の切り抜き、ごみでしかないチラシなどをひっくり返してさんざんさがしましたが、出てきません。
あっ!
銀行口座に入れようとして、通帳にはさんだままだった気がする。
3銀行の通帳一式をまとめたメッシュポーチを収めている、机わきの一番下の引き出しを開けました。ところが、そいつが見あたらない、のです。通帳一式の紛失はもっと大ごとです。
引き出しに入っていたものを全部かきだしましたが、どこにもありません。もう、平常心でないのが自分でわかる。汗だくになりました。
あっ!
10日ほど前だったか、この引き出しを閉めたとき、ドタっというモノ音があったことを思いだしたのです。ためしに、引きだしごとそっくり引き抜いてみましたら、底に落ちていたではないですか。
しかし、メッシュポーチのなかにお札はありませんでした。すわりこんで、少し考えました。
あっ!
急な葬祭があって、すこしまえに3万円を包んだのです。つまり、あったはずと思い込んだ現金は2万円ではなく、3万円でないといけなかった……
こんなことをしていたら、仕事らしい仕事もしないまま日が暮れますでしょう。たんなる年のせいでないことは、自分が一番よく知っていますとも。

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2021年9月 2日 (木)

絵をもらう


その昔、仕事場としていた部屋の大家さんが、久しぶりに電話をくださった。
「あなたに、もらってほしものがあるんだけど。いつ、こられる?」
二階にあった仕事場の真下が、大家さんの喫茶店でした。御年91歳。とうとう店を閉めるという。で、店のものを処分しているというのです。


駅の外に出るともう陽が落ちていました。
そこから喫茶店までの道は、10年ほど前、自転車で毎日通ったものでした。ときに、ぶちとも歩いた。懐かしいと同時に、ほろ苦い季節でもありました。
月刊誌を中心に仕事をしながら、書籍をこつこつと書くというーー豊かではないけど、かろうじて暮らしていけるーー暮らしの土台が、ガラガラと崩壊した時期でした。
焙煎機から立ちのぼるコーヒーの香りが窓から流れ込んでくる。その匂いに包まれた部屋で、「なんとかなる」「道はかならず見つかる」と、来る日も来る日も自分に言い聞かせていた悲壮感が、ありありと蘇ってくるのです。
どうにもならないこともあるーー
と、現実を認める余裕は、そのころの自分にはとてもなかったのです。人生には、勝ちか負けのどちらかしかなかった……
わたしも、若かったのです。


すっかり片づいた店の壁に、れいの絵が架かっていました。
そういえば、あったなぁ
「もらってくれるでしょ? あなた、自分ではずしてちょうだい」
大家さんが言いました。津軽の故伊藤正規画伯の小品で、陶器にリンゴが3つ入っている。器の正面に描かれた一羽の鳥の黄色が、なんだか無邪気なのです。そして、氏の絵にしては珍しい金地。
まさに、この真上の部屋を借りていたとき、ある企業の広報誌に一話読み切りの紀行文を連載しておりました。津軽篇のとき、五所川原の画伯の絵のことに触れました。なぜかといえば、目の前の椅子に座って、この絵をほぼ毎日眼にしていたからなのです。


片づけをしていて偶然そのときの読み物を見つけた大家さんは、つい読みふけってしまったそうです。で、読み終えてすぐに、あの電話をかけてくださったのだと。
紙袋に入れた絵を抱えて、家の最寄り駅にたどり着いてみると、土砂降りでした。
よりによって、こんなときになぁ
どうしたものかと、駅舎のガラス窓越しに暗い空をぼうっと眺めていたら、いつの間にか、あの部屋の窓辺に立って雨を眺めているような気になっていました。
時間を巻きもどすことなんか、できるはずもないのに。巻きもどしたいとも、思ったこともないのにーー
なぜか過去に引っ張られるのです。

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2021年8月14日 (土)

このごろのこと


詩集を3冊買いました。
いずれも現代詩、同時代人のものです。でも、買った詩人については、どんな履歴の人か、どんな詩をつくる人か知りません。
そもそも、これまでほとんど同時代人の詩を読まずにきました。


きっかけやら必然が生じたわけではなく、ふと、思ったのです。
同時代に生きている人は、詩という形をつかって、どんな言葉で、どんなことを歌っているのだろうか。どのようにして、時代に言葉を刻みつけているのだろうかと。


なんの知識もなかったので、twitterで、ある詩人(詩の世界では知られているらしいという以外に、この方についても知らないのだけど)が勧めていた2冊、それとタイムラインで書籍の映像が流れてきた1冊(表紙とタイトルの感じがよかった)を、「e-hon」のサイトから注文しました。


詩集は値が張る、は書籍の世界の常識です。たいして部数を刷らないので、どうしても一冊に乗るコストは上がってしまう。
ハードカバーの『ニューヨーク・ディグ・ダグ』(長田典子 思潮社)は税抜きで3,600円でした。『貨幣について』(さとう三千魚 書肆山田)は税抜きで2,400円。この金で、読みたい本が何冊買えただろ、などと考えてはいけない。と、自分に言いました。
ちなみに、薄く簡素なつくりの『地面』(大崎清夏 アナグマ社)は1,000円でした。そういえば、自分の詩集だって1,500円はします。人さまに勧めるには、少々高価です。


昨日からずっと雨でしたので、買ったままだった三冊の詩集を開きました。一篇読んだら、別の本をめくりといった無節操な読み方です。
足もとから、ぶちのいびきが響いてきます。きょうは、なん度一階に抱きかかえて降ろしても、じきにのぼってきてしまう。

 

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2021年8月11日 (水)

レモン色のスニーカー

ソールが壊れてしまったスエードのスニーカー(ニューバランス)を、修理に出すために昨日、高円寺の駅に降りました。靴箱のなかでもう3年ちかく眠っていたものです。あかるいレモン色です。

9年前に逝った友人の形見分けでもらった一足。「処分するのももったいないから、もらってくれない?」とその方のパートナーに言われたときは、やむなく首を横に振ったのでした。イエローは友人がとても好きだった色ですが、ちょっとわたしには難しい。
しばらくして、届いた小包みのなかに、なぜかこれがありました。
弱ったな
と思ったものの、いつしかよく履くようになりました。

さがす小さな修理工房は住宅地のなかにありました。
見積もってもらった修理費は1万4千円弱。毎朝走るわたしのジョギングシューズならば新品を2足買ってお釣りがきます。
納品には2カ月ほどかかるとのことでした。ずっと懸案だった「しごと」がやっと片づいたような晴れやかな気分。

故人がこれを履いて待ち合わせの街角に立っていた姿を久しぶりに思いだしました。右手をちょっとあげて
「よっ、こまやん」と言うのでした。
盆です。

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2021年8月 9日 (月)

このごろのこと


五輪の熱狂の後ろ姿がまだ見える今朝、思い浮かんだことばは「敗戦」。
あっそうか、あれは敗戦の狂気か。
植民地主義を正当化するために掲げた「五族共和」と、人類がコロナを打ち負かすのだという五輪。いずれも空疎。ナンバー「5」の重なりは、ただの偶然か。


知人からのメールで、8月9日だと気づきました。
朝からの生暖かい強風は、長崎からの爆風にちがいない。
11時2分、アメリカ軍が市街地に投下した原爆は、人々の暮らしを吹き飛ばし、7万4000人の命を高熱で溶かしたのです。
あのときもこの列島は、ある種の熱狂に侵されていたのでした。


家を一歩も出ずに、領収書、机周りの整頓と、執筆のための年表づくりをしていたら、もう日暮れです。
植民地台湾とは、大日本帝国にとってなんであったのかーー
こたえがない。
セミが鳴いています。今日中に読み切ってしまおうと思っていた資料は、まったく手つかずでした。
しかも片づけたつもりの机のうえは、まだ渾沌としています。
「敗戦」
銭湯に行くか夕方まで迷ったのですが、もろもろのリスクを考えやめました。
大きな浴槽で、のんびり汗を流したい。

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2021年7月 8日 (木)

このごろのこと


中国地区の豪雨が気にかかり、災害情報がないかNHKをつけました。
と、ちょうど緊急事態宣言に対する総理会見が始まるところでした。
オリンピックの開催は「未来を担う子どもたちに夢や希望をあたえる」という長いあいさつもふくめ、40分ほど観てしまいましたが、時間の無駄でした。


記者の質問によって明らかになることが、一つとしてないのです。
まずスガさんが、質問にまともにこたえない(こたえられない)。記者は再質問をしない。どの記者が出てきてもおなじです。
そもそも、準備している質問そのものが、政府が言わないこと、言えないことに切り込んでいません。スガさんが告知したいことを、記者が推し量っているとしか思えない質問がとても多い。政局のことなんかいいんだよ。


このコロナ対策やオリンピック開催にまつわる混乱で明らかになったことのひとつが、役に立たない日本のマスメディアの本質。彼らは、権力の補完勢力であることにまるで自覚がない。まさに存在意義を問われるその厳しい現実に、たぶんメディア人は危機感を感じていない。
観ていてことさら嫌だなと思ったのは、毅然としたところがない質問の態度です。


もし、メディアに興味のある若い学生さんなどに質問されたならば、わたしは、記者会見を観る時間があったら、野党の国会質問を観る時間をつくったほうがいいですよ、とすすめるでしょう。真剣さ、質問の技術、準備している情報のどれをとっても、共産党の議員の方が数段上です。勉強できること、考える材料は、政治部の記者さんよりもたくさんもらえます。
でももっと見てほしい大事なことは、言論の府で顔をさらして、真剣勝負するする姿です(たたずまいだよね)。

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2021年7月 5日 (月)

このごろのこと


よく降ります。激しく降ります。
梅雨前線が列島にかかるころの「長雨」という言葉は、あまりに極端なこの天候をあらわすのには、とても足りない気がします。
熱海の湾を見下ろす山の手の住宅街を、まさに怒濤のごとく滑り落ちた土石流の映像には、ただ唖然としました。


いまや地球規模の異常気象を認めない人は、まずいないでしょう。
でも、その危機が自分ごとであるかどうかは、別の問題なのかもしれません。地下資源をひたすら掘り起こし、地中にあった二酸化炭素を大気中に放出しまくる経済活動に、歯止めがかかる気配はありません。新手のウィルスの出現と拡散も、自然と人間の接近がもたらした一つの現象で、人の目に見えないところで、さまざまな異変はからまりつながっている。


根拠を証明せよ
との反論は、必ずあります。
もっともです。
ただね、現実にそんな時間的な余裕があるのでしょうか。
考えられる可能性を一つだけつぶすにしても、一世代で間に合わないのは明らかです。複雑にからみあった環境の破綻を食い止めるには、とても至らない。次の世代が、いまのわたしたちが想像もしなかった脅威に直面する可能性は大きいと、言わざるをえない。
かの土石流だって、一世代前の住民は想像だにできなかったはずなのです。人の想像力は、その深刻さにもうすでに追いついてはいないのです。

オリンピック会場に観客をいれるかどうかの話が大詰めです。感染拡大の根拠があるとかないとか。そんなの、どうだっていいよ…… 想像してごらんって。

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2021年7月 1日 (木)

このごろのこと


ずっと懸案だった「課題」が、ようやく片づきました。先週の日曜日のこと。ひと晩寝たら急に体がぐったりしてしまい、なかなか回復しません。いまもまぶたが閉じそうです。
ひと仕事に手をかけるかどうか、きっかけを待っていたら、とうとう機を逸してしまったということが、ままあります(たくさんある)。
さりとて、やらないままで通り過ぎたとしても、それはそれで困ることもないわけです。あとになって、もしできたとしたら、あのときだったか……と、思うぐらい。


人生の多くの課題は、大なり小なりそんなもんで、わたしのような凡庸な人間には、絶対に避けて通れないものなどそう多くない気がします。
避けて通ってもいいのだけども、まぁやってみるかと思い立つことって、案外少ない。それを縁というのかどうか。
ともあれ、そんな石ころみたいな「やろうかなぁ」が、足もとにコロコロ転がっているわけです。たいてい、そいうのは損得には関係ないことだったりします。でも、石ころを蹴ってみたり、手にとったりすることが、実は人生の岐路だったりする。
塞翁が馬。きっと棺に入るとき、それがわかるのでしょう。


ついでにいえば、「片づいた」などと言ったものの、結果は上出来といえるものではありませんでした。
それでも、やるだけやったという安堵があります。どうじに、うまくいかなかった自分の力量を受け容れる「あきらめ」もあります。許しとはこうやって自分で手にするものかと、思ったりもします。
でね、課題がひとつ片づくと、それまでぼやけていた次の課題が目の前に立っている。

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2021年6月24日 (木)

このごろのこと


数軒お隣の14歳になった柴犬が、めっきり歩かなくなったと、おばさんが心配げに言いました。
「お散歩が好きで毎日一時間も歩いてたのにね、今日なんか、この少し先で動かなくなっちやって……」
13歳のぶちも、そんなに変わりません。
「うちも、そうですよ」
ただ、ちがうことは以前から歩くのが好きじゃなかったということ。子どものときから、積極的に「歩かないからね!」と主張していたこと。


先週の土曜の朝は雨でした。いつもの散歩はなし。遅めにふとんをぬけだして、ラジオを聴きながらコーヒーを入れて、時計をみれば、すでに10時過ぎです。けれども、人のふとんを占拠したぶちは、まだ起きる気がない。朝方、トイレをして、しばらく居間におったのですが、階段をのぼって勝手にまたふとんに戻ってしまったのです。二度寝です。


このごろ、たまに遅くまで起きていると、階段をのぼってくる音がして部屋のドアの前でとまります。ドアを開けてみると、ぶちがすわっていて、ブッブッブッッと鼻を鳴らします。
じきに仕事場の机のまわりで、いびきをかきはじめます。抱きかかえて下の階に降ろすのだけど、ふとんに入らず、10分もするとまた階段をのぼってきてしまう。
しかたなく、PCの電源を落とし作業を終いにします。一緒にふとんに入ると、もう上にはいかなくなります。
「そろそろ、寝ようぜ」って、言っているんだよね。

 

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2021年6月15日 (火)

レール


先日、陽が明るいうちに乗った電車の車両が、たまたま最後尾でした。ふと振り向くと、窓越しの風景がうしろへ後ろへと逃げてゆく。乗り慣れたいつもの路線が、まるでちがって見えるのに目を見はってしまいました。
途切れることなくつながるレールはまるで時間軸で、どこかに向かって時間を遡っているのではないかという空想がひろがる。


ふと、一本の映画を思いだしました。イ・チャンドン監督の「ペパーミントキャンディー」。フィルムの逆回しにより、列車がどんどん後ろへと走るあの映像が浮かんだのです。戦争と独裁政権下の監視社会に翻弄された、ある男の20年がレールを滑るように映し出されてゆく。
細部まで覚えていないのですが、見終えた後の荒涼たる寂しさだけが記憶の奥からよみがえり、過ぎ去るレールから目をはずしました。


わたしのなかでは、なぜかレールは空間的なベクトルでなく、時間的なベクトルです。どうしてだろうか。
レールをよりどころに人や物が行き交う時間の感覚は、単調で安定しています。でも、考えようによっては迂遠です。固定したポイントたる駅を必ず経由する手間、一本道という制約、そしてそれゆえの安心感。それって、家のドアを出て目的のドアの前に行ける自動車の移動にはない感覚かもしれません。

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